1782年8月4日、モーツァルトはウェーバー家の三女コンスタンツェと結婚した。ウィーンで貸家業を営んでいた寡婦ウェーバー夫人の娘で、彼が失恋した次女アロイジアの妹である。ウィーンで独立直後の彼はそこに居候しており、娘の婿探しに励んでいた夫人の網にかかったのか? 以後2人は彼の死まで9年間の結婚生活を送る。父レオポルトは怒った。息子を大宮廷の楽長にし、金持の娘と結婚させ、自分はその上で権勢と安楽な余生を送る計画だったのだ。それが、就職もままならないどころか、貧乏人の娘をもらうなどとは何事だ、というわけだ。姉のナンネルも犠牲者だった。弟が家を出た上に結婚相手が貧乏人の娘では、寡夫である父の面倒は誰が見るのだ。彼女の婚期は大きく遅れた。父は承諾を渋り、それが到着したのは結婚式の翌日だった。
こういう事情もあったのだろう、妻としてのコンスタンツェの評判は甚だ芳しくない。ソクラテスの妻、トルストイの妻と並んで、世界三大悪妻の一人だそうである。曰く、経済観念がなくモーツァルトの浪費に同調し家計を破綻させた。晩年彼が借金に喘いでいた時、自分は金のかかる保養地で療養していた。曰く、彼の身の回りの世話をせず家事も余りやらなかった。このため彼の健康を害した。曰く、彼と彼の音楽を理解せず、その創作活動に何らの寄与もしなかった。曰く、貞操観念が乏しく、保養地で他の男性たちと馴れ馴れしく付き合った(その噂を彼は心配し自粛を求める手紙を送っている)。また、性的欲求が強く夫の芸術的創造を奪い取った。更に曰く、夫の埋葬に立ち会わずお陰で埋葬場所は今も不明である、夫のデスマスクを誤って壊し捨ててしまった、などである。端的に言えば、「家計・家事能力に欠け、夫とその音楽を理解できない、セクシーで淫乱且つ愚かで浅薄な女」というわけである。いやはや大変なもので、これでは「天下の悪妻」との評判もやむを得まい。
しかし、よく考えて頂きたい。そのことをモーツァルトはどう考えていたのか。彼自身はどうだったのか。彼は遊ぶことと派手な生活が大好きだった。仮面舞踏会、ダンス、カード遊び、ビリヤード等々、遊びのどんな機会をも逃さなかった。そのためには金に糸目を付けなかった。しかし、その遊びの中で彼は音楽の着想を得、楽想を羽ばたかせ、その創造性を高め、深め、広げたのではなかったのか。その結果はウィーンでの10年間の作品群に如実に現れているではないか。金のかかる派手な生活は彼自身の性格でもあるし、パトロンである貴族と付合う上でも必要だったのだ。彼女が反対する理由があろうか。もし、コンスタンツェが倹約生活を彼に迫り、その自由な生活を制約したとしたら、あのような創造は可能だっただろうか。また、確かに彼女は創作上の霊感を与える存在ではなかった。だが、彼が必要としたのはクララ・シューマンでも、コジマ・ワーグナーでも、アルマ・マーラーでもない。異常な緊張を強いられる創作活動の合間に、彼は愚劣な冗談を言うのが好きだったが、彼女は何時も快くその相手をしただろう。彼の猥談には大笑いで答えただろう。彼にはそういう伴侶が必要だったのだ。霊感は他の女性たちに求めた。
倫理感の薄さは? その兆候はある。その名に反し(コンスタンツェは貞女の意)、結婚前に罰ゲームで彼女が他の男性に太腿を測らせるという事件があり、二人は大喧嘩をしている。彼女はちょっと彼の従妹のベーズレに似た所があり、確かにコケティッシュだっただろうが、では、彼はどうだったのか。ドゥシェク夫人、ストーラス嬢を始め多くの噂があり、ピアノの弟子も多くは女性であった。二人は彼の浮気のことで何度か言い合いをしたそうだ。お互い様ではなかったのか。それに彼はコケティッシュな彼女が好きだったのだ、ベーズレを好きになったように。彼は父への手紙で、「(彼女は)美人ではありませんが、スラッとした体つきをしています」と書いているが、肖像画ではふくよかな体の持ち主に見える。彼女は何時でも彼の要求に答えたであろう。9年間に6人の子供を産んだ。何時も大きなお腹をして、外で浮名を流す夫を夜遅くまで家で待ったのである。面白くなかったであろう。バーデンでの保養も子供を産み続けたためであるが、多少羽目を外したくなったのも人情というものである。埋葬に立ち会わなかったのは当時の慣習(埋葬簡略令)に従っただけである。また、彼のデスマスクなどは、ない方が良い。
要するに、彼女との結婚でモーツァルトは精神的にも肉体的にも自由と快楽を享受したのだ。有り体に言えば、「家事能力には欠けるが、家計・音楽に口を出さず、楽しく会話の相手をしてくれる、セクシーな」彼女が好きだったのだ。彼らは似合いの夫婦で結婚生活はそれなりに幸せだった。これを良妻と言わずして何というか。天下の良妻とはいかないが、良妻には違いなかろう。天才の妻が偉大である必要はない。
夫の死後彼女は見事に変身し、生きるために自立する。未完のレクイエムを完成させ、依頼人に無断で筆写譜を作成し、他へ売却する(お陰でレクイエムの楽譜は現在に伝えられた)。残された自筆譜を纏めて出版社に販売する(お陰で自筆譜は散逸せずに済んだ)。いずれも夫の残した借金を精算し子供を養育するためであるが、結果としてかなりの資産を残した。また、オランダの外交官ニッセンと再婚し、彼の「モーツァルト伝」を手伝い、その遺稿を出版した。晩年、2度の結婚について問われ、こう答えたそうである、「2度とも大変幸せでした」と。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2014年11月会報に掲載)