モーツァルトは著名な音楽家としては史上初の自由な、どの宮廷にも属さないフリーランスな音楽家であったと言われるが、彼自身は望んでそうなったわけではなく、生涯、宮廷に雇用されることを願いそのための活動を続けた人である。当時は宮廷に雇われる以外に生活を安定させる道はなく、父レオポルトもザルツブルク宮廷のお抱え音楽家だった。息子に天才を見出し、それを披 露するための大旅行を敢行するが、その究極の目的は息子を、ザルツブルクのような小宮廷ではなく、大宮廷の楽⻑にすることであった。
幼い頃の「⻄方への大旅行」を始めとする各地への演奏披露旅行の後、1769年11月14日にモーツァルトはザルツブルク宮廷楽団の無給のコンツェルトマイスターに任命される。13歳であった。翌月に控えたイタリア旅行のための箔付であろう。厳格だったコロレド大司教と違い、前任のシュラッテンバッハ大司教はモーツァルト一家の演奏旅行に寛大であった。これは何も彼が親切だったわけではなく、周囲の諸侯に対して自慢がしたかったのである、「俺のところにはこんなすごい奴がいるのだぞ」と。モーツァルト父子にとってもイタリア旅行は必要だった。良い就職のためには名声、即ちイタリアでの経験と成功が必須だったからである。イタリアには3回旅行するが、1回目は技術の鍛錬と名声の獲得が目的だった。
2回目には本気で就職を狙った。ミラノの君主フェルディナンド大公はマリア・テレジアの子息で、モーツァルトの才能を認め雇用に前向きだった。若い大公は⺟の意見を聞くが、返答は、「世間を渡り歩く乞食を雇うべきではない」というものであった。以前モーツァルト一家を歓待したマリア・テレジアではあったが、政治家としての判断は冷徹だった。「奉職する宮廷をないがしろにして各地で勝手に就職活動をして回る、そんな輩を雇ってはならない」のであった。採用の暁には、レオポルトが背後で権勢を振るうことを恐れたのかも知れない。何れにしてもレオポルトはここで悟るべきだった。ハプスブルク家は各地の諸侯と婚姻関係で結ばれており、それらの諸侯にも同様の指示が出ていたはずである。つまり、ハプスブルクの息の掛かった所では就職の目はなかったのである。3回目の旅行ではトスカーナ大公(マリア・テレジアの次男)に期待を寄せるが結果は同じであった。かくしてイタリアを諦め、次に、マリア・テレジアの本拠ウィーン宮廷を目指すがそこでも失敗する。当然である。
ザルツブルクに戻ったモーツァルトは1772年8月に有給となり、年棒150グルデン(約150万円)を支給される。16歳であった。しかし、身分の低さと音楽活動の制約に不満を持ち、次第に雇用主のコロレド大司教に反感を抱くようになる。1777年9月、21歳の彼は職を辞し、マンハイム・パリを目指して⺟と共に就職活動の旅に出る。若い彼は自信満々だったが現実は厳しかった。ミュンヘンでは選帝候マクシミリアン3世から「定員に空きがない」と断られる。隣国のザルツブルク大司教への遠慮か、帝国副宰相を父に持つ大司教からマリア・テレジアを巻き込んだ裏工作でもあったか。選帝候も、「やれやれ君も若いな、モーツァルト君。大司教と喧嘩でもしたのか?」と危惧している。次のマンハイムも同様であった。選帝候カール・テオドールから好意ある言葉はもらっ たが、それだけだった。パリも大人になったモーツァルトには関心を示さなかった。職を求めて多くの音楽家が集まって来るパリでは、ドイツの田舎から来た純朴だが自尊心の強い一⻘年が社交界で相手にされるはずもなかった。「才能は半分でよいから、2倍の社交術が必要」なのである。結局おめおめとザルツブルクに帰還し450グルデンの年給でオルガニストとして再就職を認められる。大司教としては、「見たことか。頭を下げてくるのであれば許してやろう」といったところであっただろう。実力は認めていたのだ。
その後2年間の忍従の末の1781年6月、彼は遂に大司教と衝突、大喧嘩となり、再度職を辞してウィーンに移住する。25歳であった。「自由な音楽家の誕生」と言えば聞こえは良いが、要は、喧嘩の果てに「図らずもなってしまった」のであり、定職を失ったわけである。勿論、彼としても成算はあったわけで、演奏活動を中心に自作の楽譜販売やピアノ教師などで収入を確保するが、本意 は宮廷音楽家、それも楽⻑になることであった。幸いウィーンも⻑男のヨーゼフ2世の世となっており、その愛顧を得て1787年12月にグルックの後任として宮廷作曲家(正確には皇帝直属楽団の作曲家、宮廷楽団用の作曲は楽⻑のサリエリ他の担当)に任命される。苦節6年半、待望久しい就職で、余程嬉しかったのであろう、ザルツブルクの姉に誇らしげに報告している。父のレオポルトは半年ほど前に亡くなっており、生きていたらさぞ喜んだであろう。当面の義務は宮廷用舞曲の作曲だけであり、それ以外の活動は自由であった。年棒は800グルデン(約800万円)で、生活が派手な彼には不足だったかもしれないが、普通の家庭であれば生活に十分な額であった。最高位のポストである宮廷楽⻑に就任したサリエリの報酬が1,200グルデンであったことを考えると、これは、帝国の誇りとするこの2人の重要な音楽家を遇するにあたってのヨーゼフ2世の絶妙なバランス感覚ではなかったか。その後、対トルコ戦争の拡大と頼みのヨーゼフ2世の崩御により彼の運命は一時暗転するが、1791年5月に聖シュテファン教会の無給の副楽⻑に任命され、病弱の楽⻑(年棒2,000グルデン)の死を待つ。この頃までに高まっていた国際的な名声とこの2つの肩書きの活用(「現職の宮廷楽⻑」と自称)により、彼の前に未来は大きく開け、前途は洋々に見えた。だが、同年11月後半からの病状の急激な悪化と12月5日の早すぎる死が、即ち、運命が、この新たな音楽活動の展開と作曲上の新境地を目指した再出立を、その壮途半ばにして、無残に断ち切った。
彼は結局どの宮廷でも楽⻑にはなれなかった。しかし、楽⻑とは宮廷楽団の演奏指揮、作曲、宮廷子⼥の音楽教育の他、楽団の運営・楽器や楽団員の管理など管理能力も要求される激職である。若い彼にそういう能力があったか。その上陰謀渦巻く世界である。そんな事に身をすり減らすより、例え楽⻑でなくとも自由な方がよかったのではないか。現に、オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」や「皇帝ティトゥスの慈悲」は、当初、サリエリに委嘱される予定であったが、楽⻑としての激務に時間と創作意欲を奪われ、モーツァルトにお鉢が回ってきたものである。そう言う意味では、管理と雑務が不要で作曲に専心できる宮廷作曲家への任命は、管理能力に秀でたサリエリに対し、モーツァルトの作曲能力を高く評価したヨーゼフ2世のこれもまた絶妙の采配ではなかったか。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2016年1月会報に掲載)