13.神聖ローマ帝国ヨーゼフ2世

 

 神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトの守護神であった。この皇帝のお陰でモーツァルトはウィーンで活躍することが出来、その死と共に没落したとっても過ではない。楽に興味のなかったマリア・テレジアとは違い、楽愛好家でありクラヴィアの優れた演奏家であったヨーゼフ2世は、ドイツ楽の興隆、特にドイツオペラの確立という理想を持っていた。そのためのモーツァルトの能力を高く評価していたが、多分それ以上に、両者には何か相通じる心があったように思う。所謂、ウマが合ったというのであろう。モーツァルトのウィーンでの楽活動はこの皇帝を抜きにしては語れない。

ヨーゼフ2世は、先帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの男としてまれた。フランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは妹である。フランツ1世が1765年に崩御すると24歳で神聖ローマ帝国皇帝として即位し、女帝(正確には皇后であり皇帝ではない)といわれたと共同統治を行った。しかし、は夫フランツ1世との間に16人の子供を産み、妊娠した大きなお腹を抱えながらプロシャのフリードリッヒ大王とオーストリア継承戦争、更には7年戦争を戦い抜いた強者である。実際には彼の帝位はお飾りに過ぎず、国政の実権はにあった。彼はこの皇帝習いともえる期間、⽪⾁にも、の宿敵フリードリヒ大王の政治思想、即ちフランスの啓蒙思想に共感を寄せていく。1780年、女帝の崩御により名実共に皇帝として君臨するが、この直後の1781年にモーツァルトがザルツブルク大司教との喧嘩の果て、ウィーンに移住して来るというのも何か両者の因縁を感じさせる。

ヨーゼフ2世は啓蒙君主として数々の改革を断行するが、その第1が農業産力を高めるための農奴解放であり、第2が宗教政策で、帝国内の多くの修道院を解散させ、その財産を没収し帝国財政の健全化を図るものであった。更に、カトリック以外の信仰の自由を認める宗教寛容令、死刑と検閲の廃止、中央官僚機構の整備、語統一令によるドイツ語の公用化などの近代化諸施策を実行する。この他、全市のためのウィーン総合病院の開設や、ハプスブルク家の領地内での公園(プラーター公園:市に無料開放)の開設も行った。これらの施策により商工業を発達させ王権強化と富国強兵を図ろうとしたが、結局は殆どが挫折する。貴族や教会など旧勢力の抵抗が原因であるが、要するに改革を急ぎ過ぎたというか急進的すぎたのである。ライバルのフリードリッヒ大王は「第一歩より先に第二歩を踏み出している」と彼を評したそうだが、対トルコ戦争中に病を得、モーツァルトに先んじること1年、1790年に49歳で失意の内に亡くなる。墓碑銘は「意図は全て良かったが、結果は全て失敗だった者ここに眠る」というもので、自己を客観的に評価出来る人だったのである。

皇帝とモーツァルトの縁とは如何なるものであったか?それはモーツァルトの幼年時代に始まる。皇帝は、モーツァルトが17626歳の時にウィーンを訪れマリア・テレジアの前で御前演奏をした際に、皇太子として立ち会っておりその際に強い関心を持った。数年後、モーツァルト一家が再度ウィーンを訪れた際、オペラを作曲するよう促している。これがモーツァルト初のオペラ・ブッファ「ラ・フィンタ・センプリーチェ」であるが、この時は残念ながら宮廷楽関係者の反対で上演されなかった。それから十数年が経過し、モーツァルトのウィーン移住後の178212月のクリスマスイブに、皇帝は、当時ピアノ演奏の名手とわれていたク レメンティとモーツァルトのピアノ競演を指示し、結果についてモーツァルトの肩を持っている。この競演での勝利がピアノ演奏家としてのモーツァルトの名声を大いに高め、ピアノ協奏曲を柱とする彼の予約演奏会への強力な追い風となった。更に、1783323日のブルク劇場に於ける演奏会には皇帝自ら臨席し、拍手喝采を送った。モーツァルトはどんなに喜んだであろう、そのことを父レオポルトに誇らしげに報告している(1783329日付書簡)。皇帝はまた、ドイツ精神高揚のため宮廷劇場でドイツ語オペ ラを上演させたが、お陰でモーツァルトは「後宮からの誘拐」を作曲する機会を得、その成功によりオペラ作曲家としての名声も確立する。クレメンティとの「競演」といい、「後宮」の作曲といい、ウィーン移住直後のモーツァルトにとって自己の宣伝に大いに役立ったであろう。

そして1786年の「フィガロの結婚」である。フランス革命の起爆剤となったともわれるボーマルシェ原作の戯曲はその革命的な内容からオーストリアでは上演が禁止されており、そのオペラ化も皇帝の理解と許可なくしては日の目をなかったものである。「危険な要素は全て取り除いた」という台本作者ダ・ポンテの説得が功を奏したわけだが、皇帝は比較的鷹揚に許可を出している。要は、皇帝もモーツァルトの楽が聴きたかったのである。続く「ドン・ジョヴァンニ」のプラハからの作曲依頼は「フィガロ」の成功がキッカケとなったもので、三部作最後の「コジ・ファン・トゥッテ」は皇帝自身の作曲指示とされる。皇帝は、「ドン・ジョ ヴァンニ」のウィーン上演も取計らっており、結局、モーツァルト楽の精髄である「ダ・ポンテ三部作」は、ヨーゼフ2世あってこそ誕したともえるのである。また、ドイツ語オペラ「劇場支配人」の作曲も皇帝の配慮による。皇帝は17862月、妹夫婦来訪の歓迎のためオペラ競演を企画し、サリエリのイタリア語オペラと競作させたのである。皇帝は更に、1787年、イタリア人が優勢なウィーン宮廷に於いてドイツ人モーツァルトを宮廷作曲家に任命し、モーツァルト年来の夢を実現させた。しかし、1790年、 その皇帝の死と共にモーツァルトの運命も暗転する。跡を継いだ弟のレオポルト1世は楽に興味がなく、モーツァルトに対しても冷やかであった。フランクフルトでの戴冠式にはサリエリ以下の宮廷楽家が随行するがモーツァルトは選ばれなかった。

啓蒙君主としての急進的な改革は貴族や教会の抵抗の前に挫折したヨーゼフ 2世だが、楽を愛する心、モーツァルトを愛する心は格別だった。「意図は全て良かったが、結果は全て失敗だった」皇帝だったが、その楽を愛する心は、モーツァルトの作品、就中「ダ・ポンテ三部作」という名作に結実した。そしてこれこそが彼の最大の業績となったとはえないか。楽史上に燦然と輝く不朽の名作と共にその名が語り継がれるヨーゼフ2世は、モーツァルトの楽において「キチンとその結果を残した」のである。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

20163月会報に掲載)