14.ワトー、レオナルド、モーツァルト

 

 以前、オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」の映像(1969年制作:カール・ベーム指揮)を鑑賞していたところ、その中でワトーの絵画が小道具として使われているのを見て、なるほどと感じ入った記憶がある。ワトーとは言うまでもなく、ブーシェ、フラゴナールと共に18世紀フランス・ロココ美術を代表する三大巨匠の劈頭をなす画家であるが、その絵画は、モーツァルトのオペラの中でも最もロココ的雰囲気の濃厚な「コジ」の世界に何と良く似合っていたことか。彼の作品はロココ美術特有の優雅で夢見るような画面を特徴とするものであるが、同時に、人生の悲哀と詩的なリアリティを感じさせるもので、続くブーシェがその確かなデッサン力にも拘らずやや風俗的、フラゴナールに至っては通俗的に感じられる中で、その格調と深さによって3人の中で最もモーツァルト、特にギャラント様式のモーツァルト、に近いものを感じさせる。現実の人物の動きの瞬間を的確に捉え、それを詩的リアリズムに昇華するワトーのデッサンは、生まれたばかりの旋律を的確に捉え、その動きの瞬間、瞬間を素早く音符に定着していくモーツァルトの作曲法を想起させる。ワトーは、人を観察する目の的確さと辛辣さ、36 歳での夭逝という面でも、モーツァルトを強く連想させる芸術家である。

ラファエロとモーツァルトの親和性が言われることも多い。ラファエロは「聖子像」やバチカン宮殿の「アテナイの学堂」で名高い盛期イタリア・ルネサンスの画家である。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの両巨匠の画風を統合し、イタリア・ルネサンス様式を完成したと言われるが、これはどうであろうか。むしろ、レオナルドとミケランジェロという両巨匠に挟まれ、その何れをも凌駕すること能わず、両者の技術を取り入れ、統合というよりは折衷によって名声を博したが、両者を統合することなど到底不可能な技であることは、彼自身が一番よく知っていた。彼の残したデッサンは確かに巧みではあるが、レオナルドの線の持つ強靭性に欠ける。若くして天才画家と謳われ、時のローマ法王ユリウス2世と次代のレオ10世の寵愛を受け、権勢並びないその生活は王侯・貴族並みの豪奢を極めたが、後年、乱作と画風の通俗化により批判を浴びた。最晩年、未完の遺作となった「キリストの変容」で乾坤一擲の名誉回復を図るが、惜しくも病魔によってその完成を阻まれた。本遺作は、感動的で劇的な動きによりルネサンスを超えてマニエリスム、更にはバロックの到来を予感させる優れた作品だけに、その夭逝が惜しまれる。夭逝した天才であり、静謐で優雅な画面、均衡と調和のとれた構図などからモーツァルトを想起させるのは事実であるが、時に甘さの残るその芸術にはモーツァルト音楽の持つデモーニッシュな力、荘重さと深さ、造形の厳しさ、浄化された世界はない。

ルネサンスの画家で真にモーツァルトに匹敵するのは、むしろ、レオナルドであろう。彼は史上最高の多才の持主で、芸術家と同時に科学者でもあった。科学者としては解剖学、土木工学、光学、流体力学、発生学、植物学、地質学、人相学の他、軍事技術にも詳しい発明家で、これらを記した膨大な手稿を残した。芸術家としては、絵画、彫刻、建築の何れにも優れていたが、画家としての名声がもっとも高く本人も画家を本職と考えていた。現在に残る彼の真作は僅か十数点だそうだが全て傑作である。完璧なデッサン力を基本にした、「スフマート」陰影技法による表情の微妙な陰りと調の移り変わり、大胆で創造的な構図、人物の表情やポーズで感情を描写する技術、厳しい造形力により「神の手を持つ」画家と言われた。代表作「モナリザ」、「最後の晩餐」、「岩窟の聖」は、これら新的絵画技法の集大成であり、史上最も有名で、最も多く模写された作品たちである。画面に漲る迫真の力、凛とした気品と高貴さ、精神的な深さと真理を感じさせる力、静的なものと動的なものとの内的緊張の高さという点で、モーツァルトの晩年の作品との強い対称をなす。晩年のモーツァルトの音楽には最高度の微妙さと不思議な浮揚感、それらが生み出す謎めいた表情がある。多くの評論家や愛好者を惹きつける謎であるが、決して解明されることのない謎である。一、レオナルドを特徴づけるのもこの謎であり、彼の描く人物の表情には常に謎の微笑が現れる。表現上の「微妙さ」が究極に達した時に否応なく現れるこの「謎の表情」こそ、最も深い意味で両者を結びつける芸術創造上の極点と言って良い。ルネサンス美術をその頂点に導き完成させたレオナルドと、18世紀音楽の総合と古典派音楽の完成を成し遂げたモーツァルト。何れも古典主義の芸術を集大成しその頂点に立った両者に、強い親和力が働くのはむしろ当然かも知れない。

ラファエロとレオナルドについて述べた手前、ミケランジェロにも言及せねばなるまい。彼は彫刻家、画家、建築家、詩人と、レオナルド同様多才で、システィーナ礼拝堂の天井画「創世記」及び祭壇画「最後の審判」など絵画で優れた作品も多いが、自身は彫刻が一番崇高な芸術と捉えていた。有名な「ピエタ」や「創世記」など、静謐さと安定した構図を持つ古典主義的作風の作品が多いが、やがて、独特の運動性を示す肉体表現によりマニエリスムへ接近し、更には「最後の審判」の怒れるキリストなど、動的な構図と激情的な表現でバロック芸術への道を開く。これ対応する音楽上の巨匠と言えばベートーヴェンであろう。その壮大で力感溢れる作風といい、晩年のマニエリスムへの接近といい、時代の転換を主導して行く正に同じエネルギーが彼らを突き動かした。ミケランジェロによるルネサンス古典主義からバロックへの「静から動」の変遷は、正に、ベートーヴェンによる18世紀古典主義から19世紀ロマン主義への「静から動」の展開と軌を一にするものである。

最高の芸術が持つ凛とした気品と高貴さ、漲る迫真の力、精神的な深さと真理を感じさせる力、静的なものと動的なものとの内的緊張の強さ、そして、最終的にそれらが純化され、浄化された究極の形を何と言うか。人はそれを神的と言う。神的という形容詞が付くのは、盛期ギリシャ彫刻を除けば、絵画のレオナルド、音楽のモーツァルト、そして彫刻では、バロックの巨匠ベルニーニ(「聖テレジアの法悦」、「プロセルピナの略奪」、「福者ルドヴィカ・アルベルトーニの死」)と「ピエタ」に於けるミケランジェロなど、ごくわずかである。神的な絵画、神的な音楽、神的な彫刻。芸術創造の究極の姿を表す表現として他にどんな言葉があると言うのだろう。だが、近代市社会の成立による個人と個性重視の19世紀には神的な芸術は遂に出現しなかった、芸術が余りに人間臭いものに成り果てたからである。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

20164月会報に掲載)