モーツァルトの父レオポルトはアウグスブルクの出身で、製本業を営む家の長男として生まれた。彼は勤勉な秀才で高等中学校へ進学するが16歳の時に父を失う。4人の弟妹がおり、母親は彼が家業を継ぐことを願うが、才能を生かしたい彼は学問と出世を望み、母の懇請を振り切って、聖職者となるべくザルツブルク大学に進学する。以後母との関係は断絶する。そうまでして入学した大学だが途中で退学し、子供の頃から好きで才能もあった音楽の道に入ってしまう。その理由は謎だが、彼はカトリックには深く帰依していたものの聖職者に対しては嫌悪感を持っており、それが動機かも知れない。やがてザルツブルク宮廷楽団に採用され副楽長にまでなる。楽長を望むが楽長職はイタリア人の占有であった。
彼は博識な知識人で各国に知己を持っており、そのお陰で欧州各地の政治・経済・社会情勢に通じていた。また、「ヴァイオリン教程」の著作もあり音楽家としても優秀であった。専らモーツァルトの父として知られているが、「ヴァイオリン教程」だけでも名前は残ったであろうと言われている。そういう彼が息子の中に天才を発見した。彼は秀才の常として自信家であったが、音楽に関しては息子の中に自分とは隔絶したものを感じたであろう。そこで、どう考えたか。天才を発見した以上、これを育てる義務感が第一だっただろうが、同時に自分と家族の将来をこれに賭ける気になったであろう。彼は自分の出世をキッパリ諦め、自分の持てる全知識と精力を息子の育成に捧げる。音楽だけではなく、語学、歴史、地理、数学、等々を全部自分で教えた。息子は父には従順な良い子であった。「神様の次はパパ」と言っている。その影響は強烈で、息子にとって父との関係は生涯の呪縛となり、「イドメネオ」以降の彼のオペラに様々に形を変えて影を落とす。
彼は神童のお披露目と音楽学習を兼ねた数次に亘る欧州大旅行を計画し実行する。第3回のイタリア旅行まで旅行に次ぐ旅行の連続であった。これは実に彼の大英断であって、息子の人格及び音楽はこれらの旅行によって形成されたのであり、その音楽が個性と共に普遍性を獲得する基盤となった。この個性と普遍性の両立こそ他に類例を見ないモーツァルト音楽のユニークさであり、旅を通してモーツァルトはモーツァルトになったのである。ウォルフガング・アマデ・モーツァルトこそレオポルト作品の最高傑作と言われる所以である。当時このような大旅行を実行するのは実に大変なことで、各国・各宮廷の情勢調査、神童の売出し方や各地での演奏会企画、訪問先での紹介状の入手、道路状況から怪我・病気の心配、金策までレオポルトの企画力と実行力なくしては到底不可能であった。他方、この幼少時の旅行が息子の生育を損ない夭折につながったという批判もあり、事実何度か重病に罹る。
マンハイム・パリ旅行では彼自身は宮廷から旅行の許可が下りず、やむなく母親を付けて出立させるが、故郷ザルツブルクから手紙で遠隔操作を行う。21歳で青春真っ盛りの息子は父親不在の旅行に羽を伸ばすが、父から指示があればそれに従い、そのために失恋もした。誠に良い子であった。その良い子がついに反抗する時が来る。大司教との軋轢から宮廷での職を辞しザルツブルクを去り、ウィーンで独立する。次いで結婚を果たす。そのどちらにも父は強硬に反対し策を弄するが、息子は頑として譲らず自分の道を歩む。25-26歳にかけてのことである。遅い父離れであった。誠に親と子の関係は難しい。子供は何時か巣立っていくものである。何時までも縛り付けておくことはできない。だが、そのタイミングは難しい。何時の時代でもそうだ。ともあれ、息子は父の反対を振り切り独立した。父は見捨てられたと感じたであろう。その一種の父殺しの意識は罪悪感となり、心のキズとして生涯息子を苦しめることになる。
自分の反対を振り切り、己が才能を頼みに立身出世を夢見て、故郷を去っていった息子の背中にレオポルトは何を見たであろうか。それは、かつて同じように自分の才能を頼み、母親の反対を振り切ってまで、立身出世を夢見て故郷のアウグスブルクを出立した自分自身の姿ではなかったか。この我慢できない激しい気性は確実に親から子へと引き継がれたのだ。「レオポルト、以て冥すべし」と言っては酷であろうか。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2015年1月会報に掲載)