モーツァルトの生涯は18世紀の作曲家としてはかなり詳細に判明している。それは、彼の手紙がかなり纏まって残っているからである。モーツァルトの手紙だけでも394通が保存されており、父やその他の関係者の手紙も含めると、白水社の書簡全集には753通が所載されている。非常に多くの手紙が書かれ保存されたのは、父のレオポルトが記録魔であったと同時に、モーツァルトの伝記を書く計画だったからである。
手紙は離れている人に書くものである。従って、旅行中の事は手紙が交換されるので状況がよくわかる。パリ・ロンドンへの大旅行、イタリア旅行、マンハイム・パリ旅行中の事はよく知られているが、その間のザルツブルクに帰省中のことになると、他の資料もあるから全然ではないが、よくわからない。手紙の中身は様々で、各地で出会った人や物に対する印象や伝えるべき要件を時と場合と必要に応じて色々工夫して書いている。真面目だったり、ふざけたり、怒ったり、ダジャレたり、言い訳をしたりと、彼の生の声が聞こえるようである。面白いのは、彼が人とのやり取りをしばしば直接話法で表現していることである。その非常に生き生きとした描写はその劇的才能を示していると同時に、彼のオペラ・ブッファの場面を彷彿とさせる。一般的音楽論などは書いていない。彼は考える人ではあるが思想を語る人ではないので、具体的な作品に関連して具体的な意見を述べている。有名なのは、「イドメネオ」及び「後宮」作曲中の父への手紙である。残念なのは、「フィガロ」作曲中のダ・ポンテとの話合いの様子が残らなかったことだ。2人は会話ができる距離にいたし、会話は消えてしまうからだ。書簡中の白眉はマンハイム・パリ旅行中の父との往復書簡、及びウィーンへの定住と結婚をめぐる父への書簡だろう。両者の考えの違いと葛藤があり、父への服従とやがて父離れが展開される。それは一篇の小説だ。
紛失した手紙も多く特に残念なのは、ウィーンへの定住・結婚をめぐる父からの手紙が失われたことだ。父からの手紙にはコンスタンツェの悪口が多く書かれていたであろう。そのため夫の死後彼女が破棄したと言われているが、彼女は他では結構際どい手紙も残しているので、破棄したのはモーツァルト自身かもしれない。何時も小言ばっかりの手紙で、残しておく気持ちにならなかったのかもしれない。モーツァルトからの手紙は残されている。父が保存しておいたからだ。
人は常に手紙で本当のことを語るとは限らない。手紙には目的がありその目的のために書くのであって、そこを考えないと読み違える。妻や身内宛でも同じである。それは現在でも変わらない。胸に手を当てればどなたも了解されるであろう。コンスタンツェの描写も結婚を認めてもらうため、少しでも父親に気に入るように脚色して書いたのかもしれない。女弟子のアウエルンハンマー嬢は彼の手紙のお陰で永遠に醜女ということになってしまった。本当にそうだったのか。彼女との関係が父の耳に入ったため、打ち消すためにそう書いたのかもしれない。彼は自分の商売敵には評価が厳しい。クレメンティとの競演も彼が言うほど圧倒的な差だったのか。プロイセン王及び王女からの夫々6曲の四重奏曲とピアノ曲の依頼は本当にあったのか。結局3曲と1曲しか作曲していない。王室からの依頼にもかかわらず、である。しかも彼は当時金銭的に困っていたのだ。不調に終わったベルリンへの旅の、妻とプフベルクの夫々に対する言い訳だったかも知れない。疑いだせばキリがない。
プフベルクへの借金の手紙。晩年の彼の金銭的困窮と生活の悲惨さの証左として有名である。確かに悲痛な手紙ではある。しかし、人は借金をするときは実情以上に悲惨さを強調するものである。さもなければ金は貸してくれない。本当にそこまで悲惨だったのか。さて、最後になったが、妻コンスタンツェへの親密な手紙。彼から彼女への愛情あふれる手紙だが、2人のベッドの上の事まで彷彿とさせる表現もあり、こんな手紙が残されて200年後の日本で読まれるとは、彼もあの世で苦笑しているだろう。「スタンツィ! 君はこんな手紙まで残したのかい」と。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2015年2月会報に掲載)