5.モーツァルトの旋律-真実の響き

 

 モーツァルトの旋律は美しい。美しい旋律、美しい音楽。これは彼が終生守り通した信条の1つであろう。モーツァルトは豪華なもの・美しいものが大好きだった。豪華な住まいと赤い華麗な服。そして高価な装身具。町で美しい赤いフロックコートを見かけ、「ぼくは、良いもの、本当のもの、美しいものなら、何でも欲しいのです」とパトロンのヴァルトシュッテッテン男爵夫人におねだりしている(1782926日付書簡)。彼の所有していた馬車もさぞ美しかっただろう。そうであれば、旋律もまた美しくなければならなかった。彼の旋律を紡ぎ出す力は天性のもので、一言で言えば、旋律の姿形が美しい。ピュアで端正で、格調がある。それは、初期の作品から一貫している。いちいち例を出すまでもないことだ。器楽にしろ、声楽にしろ、聴けば誰でも直ぐに了解することだ。ピュアで端正で美しい旋律。だが、それだけではないだろう。

 

晩年に至りその旋律の美しさは最高度に洗練され、独特の微妙さと簡潔さを備えるようになる。それは、弦楽三重奏曲K563、或いはピアノ協奏曲K595の何れも終楽章ロンド主題のように流れる。まるで、「自分はもう逝かねばならない。皆さん、さようなら。人生よ、さようなら。」と言っているようだ。その簡潔で無駄のない旋律は、あたかも今生まれてきたかのようにありのままの姿でごく自然に流れ出し、その裸の姿が我々の心を直接打つ。他のどこにもないほど自然で美しく、悲しい。人は何故、美が極まる処に悲しみを感じ取るのであろうか。思わず涙が流れる。音楽が悲しいからではない。そこに真実の響きがあるからだ。驚くほど率直に人生の真実を語っているからだ。その底には恐らく死への認識が潜んでいる。彼は、母の死を契機に死というものを強く意識し、これを直視し、考察を重ねた人である。この死への認識、生と死の問題は彼の後半生を通じて追究され、その音楽を深め、人生の通奏低音となるが、それは何も彼が短命だったということとは何の関係もない。彼自身は長生きするつもりだったろうが、長かろうが、短かろうが、生にとって死は避けられない。その死を前にして生は力いっぱい輝こうとする。その生と死とのせめぎあいの中から人生の真実が現れ、人はその旋律を聴く度にそれを聴きとり、涙する。

 

オペラの最後でスザンナが喜びの中に生の輝きを歌う(フィガロの結婚、第4幕アリア)。パパゲーノはパミーナと憧れを歌い(魔笛、第1幕二重唱「男と女」)、パパゲーナと出会って狂喜する(魔笛、第2幕フィナーレ「パパパ」)。アンニオとセルヴィリアが相愛の歌を歌う(ティートの仁慈、第1幕二重唱)。或いは、コンサートアリアK505。どれもこれもどうして皆こう美しいのだろう。喜び、憧れ、狂喜、相愛、嘆き。夫々の人生の曲がり角で登場人物の真情が露わになる。精一杯生き、精一杯歌う。他に何があるというのか、精一杯自分の人生を歌う他に。モノスタトスでさえ愛の歌を歌うではないか。

 

フィオルディリージが嘆きの歌を歌う(コジ、第2幕アリア)。アダージョの主題が流れ始め、涙が溢れる。何と悲しい歌を彼女は歌うのだろう。それは劇中のあれこれの悲しみだけではない。生きることの悲しみだ。彼女はそう訴えているように、私には聴こえる。

 

人は皆いずれ死なねばならない。人生は死によって完成する。彼は何もかも分かっていたのだ。死は戦う相手ではない、友であり受け入れるべきものである。そして、死というものがあるからこそ、人生は有限であるからこそ、生は一層輝かしいものとなる。「死の姿は私にとって、極めて平和な慰安的なものに感ぜられます」(178744日付、父への書簡)。それは人生に対する彼の覚悟と信念を示したものではなかったか。彼はそれを自分の旋律に託したのだ。そうでなければ、何故、我々は彼の旋律を聴いて人の真情と人生の真実に打たれ、涙するのであろうか。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

(20154月会報掲載)