6.努力する天才

  

モーツァルトは天才であった。まごう方なき天才であった。彼の天才については、父や父の友人たちの語る幼少時の様々な驚くべき話やミゼレーレの有名な話など、多くの記録や逸話が残されている。第三者による確実な記録もあり、それは1765年に彼が一家と共に英国に旅行した時のことである。英国王立学士院の事務局長にして自然科学者であったデインズ・バリントンという人が当時9歳のモーツァルトの楽才を初見演奏、即興演奏、自作品演奏などを基に詳細にテストし、その天才を保証している。また、彼は作曲のスピードも速く、妻と雑談しながら五線紙に書き続け、その速さは妻がごく普通の手紙を書くとき以上であったという(妻コンスタンツェの回想、1829年)。天才伝説の誕生である。だがこの天才伝説が後世の誤解を生んだ。「彼は生まれながらの天才だ、音楽が天から舞い降りてくるのだ。彼はそれをキャッチし、楽譜に書きとどめさえすればよかったのだ」と。だが、実際は、彼ほど努力した人はいないのだ。

 

彼は、ある時ピアノ演奏を賞賛され、「そうです。私だって大いに努力しなければなりませんでした。だからこそ、もう努力しなくて済むようになったのです」と述べている(1784428日付の書簡)。また、作曲に関しても、178710月、プラハで「ドン・ジョヴァンニ」が初演された晩、次のように述べている。「私の音楽が簡単にこの頭に浮かんでくると思うなら、それは誤解だ。実際、私ほど熱心に作曲を勉強した者はいない。有名な音楽の大家で、私がその作品を懸命に、しばしば何度も研究しなかった人は殆どいないくらいだ」(ニーメチェク「モーツァルトの生涯」1808年)。

 

モーツァルトは幼少の頃から父に連れられて、ミュンヘン・ウィーン・マンハイム・パリ・ロンドン・イタリアと当時の全欧洲を旅し、その先々で多くの優れた音楽家のレッスンを受け、またはその作品に遭遇した。それは学習また学習の連続であった。学習とはつまり模倣することであり、作曲技術の幅を広げていくことであったが、もし彼が凡庸な能力しか持たなかったとしたら、このようにあらゆる音楽に身を晒せば、間違いなく潰れていたであろう。だが、彼は自己に同化できるものと、異質なものを正しく選別する能力を有していた。この選別能力こそ、彼が神から授かった大きな才能の1つではなかったか。

 

彼の模倣技術は1772年のイタリア旅行後には完成したと思われる。もうどんな種類のどんな様式の音楽も書ける。16歳にして音楽の大家であり、常人であればこれでお終いである。どんな依頼人からのどんな曲にでも対応できるのだ、この後どんな努力が必要だというのか。だが、そこに留まっていたならばモーツァルトはモーツァルトにはならなかったであろう。ここからのザルツブルクでの数年間は彼にとって一番苦しい、正念場・危機の時代ではなかったか。お手本は最早外からは与えられない。自分の道は自分で探すしかない。彼はこの時期、多数のシンフォニーを作曲し一作毎に工夫を凝らす。それは模倣から独創への道であり、自己という個性を発見する旅であった。

 

17782月、彼はマンハイム・パリ旅行の途上、父親に書いている。「ご存知のとおり、ぼくはどんな種類のどんな様式の作曲でも、かなりうまく取り入れたり模倣したりできます」(マンハイムから父への書簡)。それは、苦労の結果、遂に、自己の個性、音楽言語、進むべき道を見出した自信の表明ではなかったか。以後、彼は模倣を止め、お手本を消化吸収しこれを克服する道を進む。ハイドンのロシア四重奏曲に対する「ハイドンセット」然り、またバッハの対位法に対しても然りである。時間をかけて「多様な音楽言語の1つ」として消化していく。それは、しかし、彼自身が表明しているとおり、「まことに長くつらい労苦」(「ハイドンセット」の献辞)を要する困難な道のりであった。

 

天才とは努力し得る才であると言う。天才はなぜ努力するのか。常人でも努力はするではないか。しかし、天才は何故、常人が努力の必要を認めないところに、その必要を認めるのか。困難などないと見える処に、何故困難を発見しようとするのか。逆説めくが、「それが天才である」としか言い様があるまい。17895月、ライプツィヒを訪れたモーツァルトはバッハのモテットを聴いて驚き、「ここにはまだ学ぶべきことがある」と言ったという。既に「ジュピター交響曲」を完成しバッハのスタイルを自己に吸収していた彼ではあるが、最後まで、学び、努力する人だった。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

(20156月会報掲載)