7.ベートーヴェンとモーツァルト

 

過日といっても、もう数ヶ月前になるが、協会の友人と音楽会に行き、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番と4番を聴く機会があった。演奏について私は批評する能力を持たないが、曲については以前に聴いたことのある第5番「皇帝」と合せ、感じるところがあったので記してみたい。第3番は初演が1803年、翌年の交響曲「英雄」に先立ち、彼の初期から中期、古典派からロマン派への転換を告げる新時代の音楽であり、一方、第4番と第5番は彼の最も充実した時代である中期の力作で、何れも傑作である。ベートーヴェンと言えば、ピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲、交響曲が代表ジャンルであるが、ピアノ協奏曲も彼の中期の特徴をよく表している。3作を比較するとやはり順を追って充実していくが、彼の音楽を特徴付ける共通点も多い。

 

最も強く感じるのは、3作とも音楽が全曲を通じて首尾一貫しているということである。曲の開始から終曲に向け、ある統一的な意思の下に、目的地を目指して音楽が一直線に突き進んでいく。何処に向かって突き進むのか?「苦悩から歓喜へ」といった観念的な思想・理念に向かってである。分かり易いと言えば分かり易い音楽だ。またそこには、何か「崇高なもの」を表現したいという強烈な意思を感じる。そしてそれらを表現するために用いた手法は、短い動機の有効な活用と一貫した楽想、音の強弱の極端な対比である。フィナーレに向けて異様な盛り上がりを演出するが、そこで苦悩は綺麗に解決され、長調で気持ちよく終結する。特に、中間の緩徐楽章の最後をアダージョ・ピアニニッシモでじっと潜伏し、長大なクレッシェンドを経て、終楽章に入って一気に爆発する手法(第5番)は、交響曲でも踏襲される彼の18番だ。これが聴く人に爽快感を与えると同時に陶酔・熱狂に導く。これらは人間の生理を的確に捉えたもので、音楽の高揚には極めて有効だが、私には、これら全体が、よく考えられた人工的構築物、人が頭で考え出した造りもの、という印象が拭えない。要するに「人為/作為」を強く感ずるのである。モーツァルトの音楽はもっと自然だ。

 

ベートーヴェンという人は、「苦悩と歓喜」、「崇高な理念」といった理想を生涯に亘って追い求め、音楽化し続けた人である。曲毎に歩く道や歩き方は違ったが目的地は常に同じであった。このことは彼の音楽を大いに深め感動的なものにしたが、一方、人間存在の多様性の多くを削ぎ落とし、それによって自身の音楽の幅を大いに狭めることになりはしなかったか。人生は「苦悩と歓喜」や「崇高」だけではないからである。それは兎も角、ベートーヴェンという人は頑固だったかもしれないが、極めて常識的で健全な精神を持った人、敢えて言えば楽天的でわかり易い人であったように思える。最後には歓喜に至るという理念を信じ、全てを円満に解決し長調で高らかに音楽を終結する。その音はごく健全な音であり、音量はあってもデモーニッシュ(悪魔的)な響きはない。或いはこれも19世紀初頭の近代市民社会の開始を告げる時代精神か。

 

モーツァルトの協奏曲はもっと広大で自由で多様である。そこには、喜びと悲しみ、歓喜と絶望、希望と諦め、活気と瞑想、純真さと悪魔的なものなど、人生の全てがある。勿論彼にも理想はあっただろう。しかし、彼は自分の理想を音楽化し人に押し付ける趣味はなかったし、そんなことをするにはリアリストでありすぎた。彼が表現したかったのは、人間の真実の姿、ありのままの姿である。人生は常に思いがけないものであり、何処に連れて行かれるのか、何が起きるか分からない。彼は曲を開始するが、目的地を定めたわけではない。さあ、どの様に歩くか。彼にとっては歩き方が大切だったのである。特定の思想に染まらないこと、物事を正邪ではなくあるがままに認めること、それが人間を描く唯一の道である、彼はそう言いたかったに違いない。物事に没入せず客観的に見る態度、この態度こそが彼をして劇作家たらしめたのだ。「フィデリオ」を書いたベートーヴェンと「コジ・ファン・トゥッテ」を書いたモーツァルト。「ねばならぬ」ベートーヴェンと「である」モーツァルト。ロマンチストとリアリスト。理想と現実。人生の秋を迎えて人が想うのはどちらであろうか。

 

ベートーヴェンが成し遂げた壮大な「人間賛歌」は偉大である。その壮大さは人々を陶酔させ熱狂させる。しかし、その壮大さに陶酔している間はよい。だが、一度その陶酔が醒めた後に残るものは何であろうか。壮大なもの、大げさなものの裏には常に「滑稽・しらけ」がある。或いは、その熱狂が群衆心理を伴い人々を煽ることに繋がらないと誰が保証するのか、例え作曲者本人にそういう意図はないとしても。音楽はその名のとおり人を楽しませ感動させるもので、扇動するものであってはならない。だが、この関係は微妙だ。

 

彼によって開かれた音楽の思想化、深刻化、壮大化はその後のドイツ・ロマン派に引き継がれ、最大の後継者であるワーグナーを得るが、後期ロマン派に至りその複雑化した大管弦楽と、文学・哲学思想との精緻な合一に疲れ果て、瓦解する。その最後の巨匠となったR.シュトラウスとマーラーが、共に20世紀に於けるモーツァルト復権の立役者になったというのは歴史の必然か。だが、中期の3曲のみを以てこれ以上想像の翼を広げるのは良くないだろう。最後に、両者を音質の違いで表現して結びとする。ベートーヴェンの音楽は平民と言って悪ければ市民・民主主義の響きがする。モーツァルトの音楽は貴族の響きがする。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

(20159月会報に掲載)