先月は、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」のプリマ・ドンナとされるドンナ・アンナについて思うところを書いた。だが、同オペラの女性登場人物3人は何れも、音楽的、劇的に、全く同等の重要性と重みを持つ。ついては、残り2人の人物、ドンナ・エルヴィーラとツェルリーナについても書いておかないと、2人に対して何か礼を失するような感じで、彼女たちに叱られそうな気もする。そんな事で、今回は彼女たちについて書かせて頂き、3人娘に関する纏めとしたい。「ツェルリーナ讃」などというタイトルを付けると、例の有名な、アドルノの同名の小評論のパロディのようにも聞こえ、少々気が引けるが、今回、スムーズに念頭に浮かんだのがこのタイトルで、どうも動かし難い気がするため、そのままとする。彼女は一介の農婦だが、どうして、どうして、中々のタマあり、近年とみに、その意義と存在感を増している。
最初にドンナ・エルヴィーラであるが、彼女は、先ず、怒れる女として登場する(第1幕5場)。彼女はジョヴァンニと結婚の約束をしたが、3日後に彼が逃げてしまったため、その後を追って来たのである。ジョヴァンニが同一の女性と3日も一緒に生活を共にしたのは珍しいことで、余程良い女だったのであろう。彼女は彼を取り戻すか、さもなければ復讐するつもりで、その堅い決意を決然としたリズムに乗って歌う(第1幕アリア、3番)。その場で思いもかけずジョヴァンニに遭遇するが、うまく逃げられてしまい、従者のレポレルロに彼の過去の行状を知らされる。彼女が唯一の女性ではなく、彼の相手はスペインだけでも既に1,003人に上るのだ、と。騙された事を知ったエルヴィーラは傷つき、改めて復讐を誓う。そして、ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑するのを目撃すると、嫉妬心もあろう、これの邪魔をする。この直後に歌われる彼女の付点音符付きのバロック風アリア(第1幕8番)は、彼女のやや古風だが強い性格を端的に表す。更に、アンナとオッターヴィオに対してジョヴァンニが悪者であると告げ、彼を捕えるべく彼らと共に彼の館に乗り込む(第1幕フィナーレ)。ここまでの彼女は、嫉妬と復讐に凝り固まった強情一途の女性である。
第2幕に至り、彼女の心のドラマが展開する。復讐に燃えるエルヴィーラではあったが、今度は自分の侍女を狙うジョヴァンニに「偽の改心と愛」を告白されると、コロッと信用してしまい、ジョヴァンニに扮装したレポレルロについて行ってしまう(3重唱15番)。復讐心の裏には、消そうとしても消せない彼への愛の炎が燃えていたのだ。その逢引を皆に見つかり、「ジョヴァンニを殺せ」という声の中で、彼のために慈悲を乞うが、それが実はレポレルロであることが判明し、万座の中で大恥をかく(6重唱、19番)。皆が去った後、1人佇む彼女はジョヴァンニへの怒りと、それでもなお彼を憎みきれない自分の心との相克に苦しむ(アリア、21番b)。このアリアは愛憎の間を揺れ動く彼女の心情を、まるで円環のような音の動きで表現した傑作で、その苦しみと哀しみが惻々と聴き手の胸に迫る。だが、彼女の心は、その苦しみの中で、歌うにつれて次第に「復讐」から「愛/慈悲」に向かって傾斜していく。復讐に囚われた心から、慈悲という囚われない心への転換が始まるのである。だが、これで終わりではない。彼女の心の浄化はドラマの最後にやってくる。彼女は、もう、ジョヴァンニを取り戻すことを諦める。が、せめて地獄行きからは彼を救ってあげたいと思う。彼女は恥を忍んで宴会中のジョヴァンニの前に跪き、生活を変えるよう懇願する。「あなた自身のため、生活を変えて下さい」と。だが、ジョヴァンニはそれをあざ笑うかのように、「人生は女だ、酒だ」と歌う。自分を無にしたこの最後の懇願を拒絶され、ジョヴァンニの地獄落ちを聞いたエルヴィーラは、彼への欲望を浄化し、その面影を胸に、修道院に入る決意をする。
エルヴィーラは、ドンナ・アンナと同じ上流階級の婦人であるが、アンナの様な箱入り娘ではない。独立した一人前の女である。彼女は、アンナが自分の気持ちを心の殻の中に閉じ込め、外に出さないのとは対照的に、自分の気持ちを折々に独白する。彼女は当初、復讐の一念に凝り固まっていたが、辛い経験を通じて、次第に無償の愛と慈悲の心に目覚め、最後には、自分を捨てて相手を「赦す」という心境に達する。心の浄化が達成されるのである。この「苦悩を通じて心の成長を遂げる」という意味で、彼女は、「ルーチョ・シルラ」のジューニア、「イドメネオ」のイリア、「後宮」のコンスタンツェ、「フィガロ」の伯爵夫人、「コジ」のフィオルディリージ、「魔笛」のパミーナと連綿と続く、モーツァルト・オペラの「成長するヒロイン」の一員なのである。これらの役は演ずるのが難しい。性格俳優的な意味合いがあり、人の心の不思議な多面性とその移り変わりを表現する必要があるからである。
さて、ツェルリーナだが、彼女は現代的で、存在のリアリティを最も強く感じさせる女性である。彼女の特徴は3人中で唯一、ジョヴァンニを心の中で無害化出来る人物だということである。彼女に心の傷は生じない。彼女はジョヴァンニの地獄落ちの直後に、「(お腹がすいたから)家に帰って食事をしましょう」と言える人である。修道院に入るどころの話ではない。彼女には村娘の、町娘の、勃興する市民階級の雑草のような強さがある。土の臭いのする原始の、本源的な強さがある。彼女は、アンナやエルヴィーラのように、ジョヴァンニの放つエロスと官能の放射に射すくめられてしまうことはない。有名な「2重唱」(第1幕7番)ではジョヴァンニに誘惑され、その気になるが、それは、そこに、貴族夫人となる夢を求めたのであって、心を射抜かれたわけではない。ジョヴァンニの言う結婚の本当の意味が分かれば、簡単に彼を諦めることが出来る。彼女には打算の、遊びの余裕があった。ジョヴァンニに誘惑された振りをして、一転、助けを求めるようなこともする(第1幕フィナーレ)。ジョヴァンニを狙う貴族3人を助ける働きをすれば、彼らから褒美を貰えるかも知れない。彼女にとって重要なことは、どちらについた方が自分にとって有利かだ。
彼女は生の根源、生そのものである。生まれながらの女、女の中の女である。その意味では、彼女こそ、男の中の男、ジョヴァンニの真のライバルなのかも知れない。コケティッシュな魅力を持ち、男の扱いも心得ている。マゼットにとってはファーム・ファタル(運命の女)であり、一生彼女から離れられないであろう。だが、彼女は、機会さえあれば町に出て行ってしまうかも知れない。何しろ、貴族の館に招かれ、豪華で甘く楽しい生活を知ってしまったのだから。どこなりと、彼女ならうまくやって行くだろう。彼女はカルメンとは違う。生きていくための知恵と優れた直感を持っている。その気になれば、女ジョヴァンニ、「ドンナ・ジョヴァンナ」となれる素質を持っている。ジョヴァンニのように総計2,065人というのは、身体構造が違うので無理かも知れないが、カタログを持って、千人切りを目指すようなことはするかも知れない。ドンナ・ジョヴァンナの従者の「カタログの歌」などというものも有り得ない事ではない。彼女でないにしても、女性が強くなる時代、何時かそんな時も来るであろう。彼女に戻って、案外平凡に、一生マゼットの良いお嫁さんに収まり、彼をコケにしながら、愉快で幸せな一生を送るのかも知れない。以上、やや模式的になるが、内気で時に少々ヒステリー気味のアンナ、深情けで執念深くまとわりつくエルヴィーラ、小悪魔的なツェルリーナと、世には色々なタイプの女性がおり、付き合う男性も夫々大変とは思うが、これは宿命と諦めなければならない。モーツァルトはどんなタイプの女性が好きで、付き合っていたのであろうか。何れにせよ、彼の女性を描くタッチは絶妙である。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2017年11月会報に掲載)