先月号で、パミーナについて、彼女こそ、ザラストロのフリーメーソン的啓蒙主義とパパゲーノの庶民的現実主義の2つの世界を結ぶ人物であると述べたが、実は、「魔笛」にはもう1つの世界がある。夜の女王の世界である。夜の女王の世界とは、ロココの香りを残す南ドイツの宮廷社会である。「魔笛」には、18世紀末に併存していた3つの世界が描かれており、モーツァルトは夫々の世界にそれら特有の音楽的形式を与え、描き分けた。ザラストロの世界にはプロテスタント的な北ドイツのコラール形式と合唱を、夜の女王及び3人の侍女の世界にはバロック的オペラセリア形式及び優美なロココ・ギャラント形式を、パパゲーノの世界には民謡・リートの形式である。登場人物に即して言えば、ザラストロは啓蒙主義世界の住人で、その世界はやがて19世紀の近代市民社会に繋がり、ブルジョワジーの母体となる。夜の女王と3人の侍女たちは崩壊しつつある旧時代の宮廷社会の住人、パパゲーノとモノスタトスは以上の何れの社会にも属さない庶民・農民・自然人である。タミーノは王子であり元来は宮廷社会の人間であったが、沈みゆく宮廷社会を見限り、興隆しつつあった近代市民社会へ転向した。目先の利く、頭の良い男である。
ここで3つの世界の関係を考えてみよう。啓蒙主義/近代市民社会と封建的宮廷社会とは対立する関係である。そして両者の運命はフランス革命で決定する。前者が後者を打倒し、次代の19世紀ブルジョワ社会へと展開する。旧時代の代表である夜の女王は滅亡の運命となる。では、夜の女王の宮廷社会とパパゲーノの庶民社会は?これは鳥とパンの交換関係に象徴されるように、お互いに相手を必要とするが、互いに心が通じるわけではない。生活・社会環境が違いすぎるからだ。最後に、ザラストロの世界とパパゲーノの世界の関係は?これは相互無関心である。パパゲーノは試練の誘いを最初、辞退する。関心がないのである。パパゲーナを餌にこれを受けるが、落第する。ザラストロもその失敗を見て簡単に見放してしまう。ザラストロもパパゲーノには関心がないのである。近代市民社会のブルジョワジーと一般庶民階級とは相互に大きな関わりを持たない。パパゲーノにとって、支配階級が貴族からブルジョワに変わろうが、彼の生活には関係がないのである。彼と上流階級の関係が密接になるのは、共産主義の出現、更には20世紀の大衆消費社会の到来を待つ必要がある。この男は、唯一、パミーナとの親密な関係を通じて、上流社会と心を通じ合わせる。パミーナは、タミーノとの共同試練を通してザラストロの社会と、夜の女王の娘という絆を通して宮廷社会と、パパゲーノとの親密な関係を通して庶民の自由な社会と、夫々結ばれる。彼女は、その開かれた心で、各社会間の融和の絆となる。彼女はまた、試練を通じてザラストロの男社会に参入し、そこに風穴を開ける。彼女こそ、「魔笛」の真の主役である所以である。
では、モーツァルト自身は、どの世界に一番親近感を抱いていただろうか。パパゲーノこそモーツァルトだ、という見方もあるが、それが全部ではあるまい。彼が自然児的な性格を有していたのは確かであるが、本質的には、彼は父親譲りの極めて理性的な人であった。そうでなければ、あのような音楽は書けまい。自然人としての自我が大きく見えるのは、自己の理性的な部分を外部に対して隠す傾向があったからであろう。宮廷社会に対しては、個々の貴族や僧侶への不満はあったにしても、その社会自体には必ずしも否定的ではなかったし、自ら貴族的な精神を誇りにもしていた。彼の音楽から高貴な貴族性や宮廷・ロココ趣味を除いてしまったら、その魅力の大半を失うことになろう。彼は、瓦解する宮廷社会の残光に郷愁を感じ、夜の女王たちの運命に同情した。その証拠に、彼が彼女たちに与えた音楽は極めて魅力的である。結局、彼の頭はザラストロの理念に共鳴したであろうが、その心は、夜の女王、そしてパパゲーノの世界を愛した。彼は、何時の日か、全ての社会が融和した「愛に基づく平等で平和な社会」が到来することを望んでいたと思う。そして、その希望の灯火が消えることはない、私達の心の中にパミーナが生き続ける限り。
終わりに、既成社会から外れた2人の道化者の歌から、その歌詞を掲げる。そこにモーツァルトのメッセージを感じるからである。先ず、モノスタトスのアリア。「誰でも恋の喜びを知っている、キスしたり、いちゃついたり、抱き合ったり。だけど俺は恋しちゃいけないだって、黒いのは醜いからな!それじゃ俺には心はないってのかい?血も肉もないってのかね?いつまでも女なしに暮らすなんて、まったく地獄だね!/俺だって生きているんだから、キスしたり、惚れてみたいんだ!大好きなお月様、許しておくれ。白い女に惚れちゃったのさ。白いってきれいだなあ!俺はこの子にキスするんだ。お月様、だから隠れておくれ!それがいやだというなら、目を閉じておくれ!」(第2幕13番)。こういう台詞を吐く人間が悪人だろうか。悪人というのなら、ザラストロの理不尽な仕打ちが彼の心を曲げてしまったのだ。音楽は全篇ピアニッシモを指定した美しいものである。モーツァルトのこの男に向ける暖かい眼差しを感じないだろうか。彼はどんな人物をも否定しなかった。現にこの世に生きている人間をどうして否定できようか。歌詞の中核は「それじゃ俺には心はないってのかい?血も肉もないってのかね?」の部分であろう。「ベニスの商人」のシャイロックの嘆きが聞こえるようではないか。ザラストロにはモノスタトスの心などわからなかった。社会の枠組みから外れた下層のアウトサイダーの心などは、エリート中心の彼の思想にとって問題の外であった。
次にパミーナとパパゲーノの2重唱。「(パミ)愛を感じる男の人たちには、正しい心も欠けてはいない。(パパ)甘い本能を感じるのは、女の第一の努め。(二人)私たちは愛に喜びを感じ、愛によってだけ生きる。(パミ)愛は全ての苦しみを甘美にし、あらゆる生き物は愛に身を委ねる。(パパ)愛は私たちの毎日の生活に趣を添え、愛は自然の中にも働いている。(二人)その目的が明らかに示しているのは、女と男よりも高貴なものはないということ。男と女、女と男は、神にまで至る」(第1幕7番)。「愛によってだけ生きる」と、ここでも愛が強調され、男には正しい心、女には甘い本能を感じる心が要請される。両性は、富や階層、打算などではなく、愛によってのみ合一し、それによって神に至る、というのである。そしてこれが、愛の人モーツァルトの遺言となった。僅か2年前の「コジ」の世界とは何という違いであろう。彼は変わったのだろうか?そうではあるまい。深化したのだ。「コジ」に於いて、彼は人間の本性と愛の真実を徹底的に疑ってみた。徹底的に疑った者だけが、徹底的に信ずることが出来る。彼は徹底的に疑い、そして確信したのである。人間とはこういうものだ。だが、そうだとしても、いや、そうだからこそ、真実の愛を、女と男の、そして男と女の、生の息吹がほとばしるような真実の愛を、信じなければならない、と。ちょうど、「フィガロ」の伯爵夫人が、夫の浮気は治らないと知りつつも、いや、そうだからこそ、赦すのだ、と決意したように。我々が人間であろうとするならば、その根底に真実の愛がなくてはならぬ。その事に比べれば、ザロストロの勝利などは実はどうでも良いことなのだ。戦いは「強い者が勝った」(第2幕30場、僧侶の合唱)のであって、正しい者が勝ったわけではない。現実とは、歴史とは、常にそういうものだ。彼は殆どそう言いたかったに違いない。彼は2つの愛の形を描いた(第2幕フィナーレのタミーノ/パミーナ、パパゲーノ/パパゲーナの各2重唱)が、愛に上下があるわけではない、それが真実のものでさえあれば。選択は自由だ。皆さんはどちらがお好みか。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2017年5月会報に掲載)