オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の主要主題は「自由」の問題である。主人公ドン・ジョヴァンニは、人間の根源、生そのものであり、全ての社会的束縛や倫理を否定し、精神と肉体の絶対的自由を主張する。だが、このむき出しの生と、それが要求する絶対的自由は、近代市民社会の規範・倫理と絶対的に衝突する。それがどの様に衝突し、どの様な結末を将来するか。そして、副主題は「人の心」の追究である。このオペラには3人の女性が登場するが、夫々属する階級も人格も異なる。この夫々に異なる女性3人の心理とその動きを通じて「心の成長」と「赦し」の問題に迫る。これがドンナ・エルヴィーラという人物設定の中心課題であり、その意味で3人中の主役は彼女である。だが、この「自由」と「赦し=博愛」の問題は、「平等」と併せ、モーツァルト・オペラ全体を貫く大テーマであり、別途、論じたい。一方、ジョヴァンニに対抗する劇的人物はドンナ・アンナである。彼女は劇中で繰り返し復讐を叫ぶため、ヒステリックな女と思われ勝ちだが、そうではない。本当は繊細な心の持主なのだ。心の成長がない、などと言われるが、本当だろうか。彼女の心理は堅い殻に覆われており、その解明は難しい。今回は彼女に焦点を当て、その心の動きを追って見たい。なお、本オペラでは男性達は通り一遍の感情しか表さない。男性心理の描写が主眼ではないからである。彼らの役割は、行動し、その行動によって、反応する女性達の心理を露わにし、また、その変化を促すことにある。
ジョヴァンニは行動の人であり、常に全力で行動する。立ち止まって思想を滔滔と述べたりする暇はない。人生は短く、征服すべき女は無数だからだ。彼が唯一、人生観らしきものを披露するのは、第2幕フィナーレで「人生は酒と女だ」と歌うくらいで、思想とも言えないものだ。彼の行動性を象徴するのが、プレストで歌われる「シャンペン・アリア」(第1幕11番)である。このアリアは、ドン・オッターヴィオの長大なアリア「私の心の安らぎは」(同10番a)の直後に歌われ、この対比により、オッターヴィオの常識的で思索的な性格に対する、ジョヴァンニの大胆で行動的な性格を鮮明に印象付ける。理屈を述べる常識人オッターヴィオ。これに対して、ジョヴァンニは如何なる社会的衣装をも脱ぎ捨てており、生が直接行動している。彼は存在の根源なるもの、生そのものであり、それ故に、本質的にエロティックな存在なのである。アンナの悲劇とは、平凡だが誠実な青年との結婚を間近に控えた深窓の令嬢が、事もあろうに、このエロスの化身とも言うべき男に遭遇してしまったことにある。
アンナは貴族の令嬢で、母親はいないようであるから、お父さん子であろう。親の決めた、礼儀正しく、良い人であるオッターヴィオとそのまま結婚していれば、平凡だが幸せな人生を送れたであろう。ところが、生暖かい官能の匂いが立ち込める、或る夏の夜、自室にいた彼女は、不意に見知らぬ男(ジョヴァンニ)に誘惑され、一瞬、彼の放つ強烈なエロスと官能の放射に、射すくめられてしまう。射すくめられた彼女は、相手が自分の体に触れた瞬間、反射的に抵抗する。だがその時、ジョヴァンニの官能は彼女の心を貫き、その底に触れた。「女は、女に生まれるのではなく、女になるのだ」という言葉どおり、エロスに貫かれたおぼこ娘はその瞬間、女になり、その男を忘れることが出来なくなる。男の正体は分からない。本能的に彼女は逃げた男の後を追う。2人が庭で争う内、父親が現れ、ジョヴァンニに決闘を申し込む。決闘で父親を殺害された彼女は逆上し、オッターヴィオに復讐を誓わせる。だが、自身の出来事については口を閉ざして語らない。どうして語ることが出来よう、男に心を掴まれたなどと。ジョヴァンニに対する愛憎の狭間に立って彼女は苦悩する。
この時、ジョヴァンニの誘惑が「成功したのか否か」がよく問題にされるが、台本を素直に読むならば、関係はなかったと見るのが普通だろう。ジョヴァンニ自身「今日は全てうまく行かない」(第1幕11場)と述べているし、彼女も「なかった」(あっても、そうは言わないだろうが)と言っている。更に、傍証として次の事実がある。第1に、第1幕12場の4重唱(第9曲)の直後、ジョヴァンニは、別れ際に、オッターヴィオではなく彼女に向かって、「私の城に招待します」と言っている。ジョヴァンニは一度関係を持った女性には興味を示さないはずだが、それが招待とは。第2に、彼女は、この別れ際の言葉を聞いた瞬間、あの晩の男がジョヴァンニであったことを直感する。何故か。ジョヴァンニがあの晩と同じ調子、誘惑の口調で語りかけたからだ。未練があるのだ。第3に、第1幕フィナーレで、ジョヴァンニがツェルリーナ誘惑の濡れ衣をレポレロに着せた時、彼女に対してだけは「信じてくれ」と言っている。これも未練である。ただ、これらの傍証は深読みかも知れないし、他方、彼女が第2幕最終場で1年間の結婚猶予を望むことを以て、両者に関係があった証拠と看做す意見もあり、確実なことは分からない。あまり詮索するのも野暮であろう。重要な事は、心理的に、彼女に潜在していた官能が、彼のエロスの放射によって呼び起こされた、という事実なのである。
誘惑事件のことをアンナが初めて語るのは、ジョヴァンニを犯人と直感した4重唱に続く第1幕13場である。伴奏付レチタティーヴォで彼女はあの晩の一部始終をオッターヴィオに語り始める。「危うく逃れた」という彼女の説明に嘘はないであろう。しかし、全部が本当であったか。あの晩、部屋に入ってきたのはオッターヴィオだと思ったと彼女は説明するが、あの礼儀正しい男がそんなことをするわけがない。彼女には分かっていたはずだ、本当は、別の男だということを。彼女は自分の心に起きた一番痛切な事実を語っていない。あの晩の出来事を語りながら、心の中で次第に存在感を増すジョヴァンニの姿と、身内に燃え盛る官能の炎の激しさに、自分自身驚愕し、殊更に復讐を叫ぶ(第1幕10番アリア)。この歌の激しさは、復讐の心の激しさと同時に官能の炎の激しさでもあり、彼女はジョヴァンニに対する愛と憎しみの相克に引き裂かれる。第1幕フィナーレで、彼女は館でジョヴァンニを追い詰めるが、結局取り逃がす。何故か。オッターヴィオの優柔不断以上に、彼女自身、復讐によって自らが本当に救われるのか、心の底に迷いがあったからではないか。
第2幕中盤の6重唱を経て、劇の終盤、彼女の心に転機が訪れる。結婚の延期を示唆されたオッターヴィオから、「ひどい人だ!」と非難されたアンナは、「私を分かって!」とアリア(第2幕、23番)を歌うが、もう復讐は口にしない。これは祈りの歌であり、鎮魂の歌だ。最早、オッターヴィオは彼女の眼中にない。彼は遠い人になってしまった。彼女は自身の心の浄化を願うが、ひとたび燃え上がった官能の炎を鎮めることが出来るであろうか。復讐は父に仮託された天の意思によって果たされる。自分の心を射抜いた男を父親が地獄に落とすとは。あれ程復讐を望みながら、彼女に満足の、喜びの様子はない。1年間の結婚猶予を得た彼女はどうするのであろうか。彼女自身、今は分からない。自分が何者であるか、何を望んでいるか、知らねばならない。本当の官能を知った彼女は最早オッターヴィオを芯から愛することは出来ない。が、それなりの愛は可能だ。結婚すれば、平和で安穏な生活が保証される。だが、ジョヴァンニへの思いは生涯彼女の心の底でくすぶり続けるであろう。その思いを心に宿したまま彼女は幸せになれるだろうか。ジョヴァンニを失って生きて行けるだろうか。彼は本当に死んだのだろうか。・・・女性の皆さんはどう思われるか?
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2017年10月会報に掲載)