31.音律と音階(2)

 

 前回は、4/5度に純正音を持つ「ピタゴラス音律」、これに3度音程の純正化を加えたため転調に困難が生じた「純正律」、このため5度の純正度を落とし全体を調整することで一定の転調を可能にした「中全音律(ミーントーン)」という流れを追った。前回述べたとおり、「中全音律」は音色の色彩が豊かで調性毎に特有の響きや色合いがあり、調性音楽の持つ色彩感(調性格)を促進させるものであったが、使える調性や転調の範囲が相当限定されていた。このため、調性の持つ色彩感をある程度犠牲にしても、音楽を構造的に組み立てる機能、即ち、使える調性や転調の範囲を拡大することに重点を置いた機能重視型の各種の「テンペラメント=調整(純正音程を意識的に微妙にずらすこと)」が新たに考案された。これらを総称して「ウェルテンペラメント=よく調整された音律」と言う。調整方法としては、「中全音律」が5度の純正度を落としたのに対して、今度は逆にその内の一部を純正音に戻しつつ全体の再調整を行うもので、この操作によって各音程の幅の格差を狭め、使用出来る領域の拡大と、異名同音を増やす事による、より自由な転調を可能にした。具体的にどの5度を純正に戻すかによって種々の音律が考案され、主な方式に「ヴェルクマイスター」、「キルンベルガー」、「ヤング」等がある。

「ウェルテンペラメント」は、「純正律」の流れを汲んで3度の純正度を重視する「中全音律」と、5度の純正度を重視する「ピタゴラス音律」との折衷的な音律で、両者の特徴を併せ持つ。即ち、3度の純正が優勢な調性と5度の純正が優勢な調性があり、それによって和音の響きや旋律の感じが変わるのである。変化記号の少ない調性では色彩的/和声的で中全音律に近く、変化記号の多い調性では旋律的・ポリフォニー的でピタゴラス音律に近い。各種のウェルテンペラメントはその調整の仕方によって微妙な違いがあり、中全音律と共に、互いに併存した。19世紀の後半に「12平均律」(以下「平均律」)が優勢になるまでは、音楽家たちは夫々の嗜好に合わせて好きな音律を選んで作曲したのであって、ショパンなどは、夫々違う音律で曲を作曲したため、ある演奏会では4台ものピアノを用意したと言われる。また、バッハに有名な「平均律クラヴィア曲集」があるが、彼がここで用いたのは「平均律」ではなく、「ヴェルクマイスター」の改良形である「キルンベルガー」と言われる。彼はこの中で、この音律が全ての調性に適用できることを証明すると共に、和音が美しく響く純正調(純正律/中全音律)の領域の調(変化記号少)では和声的なスタイル、旋律性が際立つピタゴラス音律の領域の調(変化記号多)では対位法的ポリフォニーのスタイルで作曲し、夫々の特徴を示したのである。

振り返って、音律を巡る問題とは、ピタゴラス音律の2つの弱点、12の半音が1オクターブを超えてしまうという1/8音の「ピタゴラス・コンマ」と、3度音程が純正音程と乖離するという1/9音の「シントニック・コンマ」を、5度円の中で如何に調整し、解決するかという事であった。そのために様々な音律が考案されたのだが、この2つの根本問題、殊にピタゴラス・コンマが存在する限り、如何に調整しても完全な回答は出ないのであって、これを一挙に解決したとされるのが「平均律」である。これは「12の半音をオクターブ内に均等に割り付ける」というもので、この均等な音程に基づいて完全な「異名同音」を実現し、全ての調性の使用及び完全に自由な転調を可能にしたのである。これは一種の合理化であり、一言で言えば、響きの美しさを犠牲にして自由な転調という機能を獲得したものと言える。この音律には純正和音は一個もないが(5度は純正に近いが3度はズレが大きい)、それには目をつぶる。この理論自体は古く16世紀から存在したが、実際の調律作業が難しいこともあり現実のものとはならなかった。この平均律が一般化したのは19世紀も後半になってからであり、ピアノの大量生産という産業構造の変化がその動機となった。種々の音律が併存していてはピアノ毎の調律作業が煩雑で生産に追いつけないため、平均律への動きが一気に加速したのである。音楽家の間ではこのような純正音のない音律には反対が多かったが、時代の流れには抗しきれなかった。今まで音律は人間の嗜好によって選択されて来た。所謂「耳が決めて来た」わけだが、始めて産業構造が音律を決めたのである。

この平均律の影響は極めて大きい。それはピアノ生産の合理化に留まらず、その後の作曲技法、演奏法、音楽教育、世界各地の地域音楽などに甚大な影響を与えたが、特に作曲技法への影響は大きい。19世紀後半、ワーグナーは半音階的な和声進行、不協和音の多用、異名同音による複雑な転調の連続などによって無調化への道を示した。調性音楽の持つ機能を究極まで追究した結果が調性音楽自体の崩壊を招くとは歴史の皮肉であるが、その前提となったのが平均律であった。全て同じサイズの半音を有する平均律は本質的に無調的な要素を有するのであって、平均律での転調とは単なる音域の「ずらし」に過ぎない。ハ長調からト長調への転調と言っても、それは、ハ長調の中で5度上の音を使ったことと、音高的には何ら違いはない。臨時記号さえ使えば、全ての音は1つの調性(例えばハ長調)内の音として表現出来るのであって、ト長調とは「ソ音を主音とするハ長調」とも言えるのである。機能優先のこの考えは作曲技法に新たな地平線を開くものとして、ドビュッシーの「全音音階」やシェーンベルクの「12音技法」を産み出し、ジャズ・ロック音楽もこれなしには有り得ない。一方、鍵盤楽器での平均律化がヴァイオリンや他の楽器、世界各地の各種楽器の調律の平均律化を促し、世界の音楽的色彩を平準化した。また、平均律ピアノでの教育により、演奏家、声楽家、愛好家の音程感覚も多くが「平均律化」された。

中世の「ピタゴラス音律」による5度中心の宗教的で厳粛な音、ルネサンスの「純正律」による3度中心の甘美で美しい音、古典/ロマン派前期の「中全音律/ウェルテンペラメント」による音色と機能(転調)のバランス、ロマン派後期の「平均律」による機能(転調)優先と、各時代は夫々の要請に応じて音律を考案し選択してきた。各音律は夫々の「時代精神」の現れである。後期ロマン派音楽の特徴の1つに、新規楽器や不協和音による特異な音色と斬新な音響、オーケストラの大音響化などが挙げられるが、これらは平均律による調性格の単調化を補う努力の表れとも言える。現代の我々の耳はこの大音響と不協和音、特異な音色に慣れすぎてしまった。慣れとは一種の感覚の麻痺である。我々は強い刺激の連続には耐えられない。感覚を麻痺させることによって刺激を和らげるわけであるが、勿論、副作用はある。知らぬ間にその世界に埋没してしまうのだ。平均律の支配の下、今や純正な協和音はどこにもない。我々が当時の音律でルネサンスやバロック音楽を聴く時に感じるあの異様とさえ言える和音の美しさ、その喪失は平均律という便利な道具を手にした代償である。昔の音楽家が現代の演奏を聴いたとしたら、その大音響と共に、音そのものにも違和感を覚えるであろう。自分が想定した音ではないと言うかもしれない。幼いモーツァルトの耳に3度の和音はどのように響いたのであろうか。幸い、現在では過去の音律の復活も進んでいる。微分音を使った新たな音律の試みもある。それは兎も角、機能優先・効率優先で全ての音程を平等に扱う平均律、そしてそこから生まれた、主音を認めない12音音楽、それらの極めて機能的且つ民主主義的なシステムの中に、私は、時代と芸術のアナロジー、現代の時代精神と言うものを強く感じざるを得ない。

 

日本モーツァルト協会会員

K465小澤純一

20182月会報に掲載)