モーツァルトはフルートが嫌いという事になっている。「ご存じのとおり、僕は我慢のできない楽器(フルート)のために書かなくてはならない時は、何時もたちまち気が乗らなくなります」(1778年2月14日、マンハイムから父宛書簡)。書簡中のこの一文が彼のフルート嫌いを定説化させた。だが、手紙と言うものは、読み方に注意が必要である。先ず、それが書かれた時点の問題がある。書かれた内容は、その時点での書き手の考えを表明するが、それが最終的な見解とは限らない。第2に、書かれた時点での状況があり、それによって書き方も変わる。第3に、相手と目的がある。人は、単なる事実を述べるために手紙を書きはしない。手紙と言うものは、相手と目的があって書くものである。その辺りを良く考えないと読み方を誤る。上記の手紙で彼は「楽器が嫌いだから、作曲が進んでいない」と述べている。「作曲が進んでいない」のは事実であろうが、「楽器が嫌いだから」というのはどうであろうか。そこには、父親には言えない何か隠された本当の理由があったのはないか。ここで少々、「フルート嫌い」の言葉が出てきた背景と状況を辿る事によって、彼の隠された真意がそこに浮かび上がっては来ないだろうか。
1777年9月23日早朝、モーツァルトはザルツブルクを出立した。マンハイム・パリへの就活旅行である。大司教の許可が下りなかったため、父レオポルトは同行できなかった。止むを得ず妻を同行させ、自身は手紙による遠隔コントロールを行った。旅行中、モーツァルトはマンハイムで、ドジャンという医師でフルート愛好家からフルートのための作品(小協奏曲2曲と四重奏曲3曲)の作曲依頼を受ける(12月10日、父宛書簡)。報酬は200フローリン(約200万円)であった。彼は、早速作曲に取り掛かり、12月18日には「もう四重奏曲を1曲(K285)作りました」と報告している。翌年1月1日には母からもレオポルト宛に「作曲に精を出しています」と報告されており、ここまでは順調であった。ところが、事態は急変する。実は、モーツァルトは、1月23日から2月2日までマンハイム近郊に、演奏報酬を期待して、さる侯妃を訪問するのだが、これに同行したのが、写譜を依頼したことで知り合ったウェーバー氏と、その次女で歌手のアロイジア嬢であった。この時、彼は、彼女にすっかり惚れ込んでしまったのである。彼女を売り込むために「一緒にイタリアへ行く計画」に夢中になり、その歌唱技術を激賞した挙句、父親に旅行計画を提案している(2月4日付書簡)。この時以来、次のパリ行きもフルート曲の作曲も、彼女以外の事は全部彼の頭から消えてしまったのである。
彼は元来惚れっぽい性格で、今回の旅行の直前には宮廷パン屋の娘と、旅行中のアウグスブルクでは従妹のベーズレ嬢と夫々危うい火遊びをし、マンハイムでは宮廷楽長の娘、ローザ・カンナビヒ嬢に好意を寄せている。ところが、今回のアロイジア嬢への恋は今までとは比較にならない深刻さで、作曲の筆は滞るようになり、母もレオポルトに「彼はウェーバー家の人と付き合うようになってから人が変わってしまいました」と告げている(2月5日付書簡)。驚いた父は「イタリア旅行などは夢物語だ。200フローリンはどうした。早く曲を完成しろ」(2月12日付書簡)と叱責する。この前後に書かれたのが本稿冒頭に掲げた書簡であり、「協奏曲2曲と四重奏曲3曲を渡して96フローリンもらった。これが200フローリンの半分とすれば、ドジャン氏は間違えています」であり、「僕は忙しい、完成できないのも仕方がない」であり、問題の「我慢のできない楽器・・・気が乗らなくなります」である。だが、ここは、正しくは「娘の事で頭が一杯になり・・・作曲に気が乗りません」なのだ。しかし、そうは書けない。「女にかまけて」と叱責されるに決まっている。そこで楽器のせいにした。一方、忙しいと言いながら、彼女のためには「コンサート・アリア」K295を無償で作曲している。更に、5曲を渡したと言っているが、これが依頼の5曲の半分とはどういう事か。レオポルトもこの点を詰問している。後述するが、実際には5曲も渡してはいない。彼はここでも苦しい嘘をついている。
当時のフルートが正確な音程を出し難い不完全な楽器だったのは事実である。しかし、それは、ホルンやクラリネットも同様である。モーツァルトは優秀な奏者に出会うと大きな刺激を受け、作曲家魂に火が点く人である。ホルン協奏曲もクラリネット協奏曲/五重奏曲も夫々、ロイトゲープ、シュタドラーという名奏者の賜物である。フルートについても、彼は当時マンハイムでベンドリングという名奏者と親しくしており、その演奏技術に刺激を受けなかったはずがない。現に、当初は、筆は「進まない」どころか、快調に進んでいたのである。その音色が嫌いでなかった事は、後年、「魔笛」では主役、ピアノ協奏曲K488やハ短調ミサの「インカルナートス」などでも準主役として使用している事からも分かる。「彼はフルートとハープが嫌いと言った」という証言もあるが、それは楽器の音色というよりは、音程の不安定且つ不自由な楽器2つを、技術の十分でない愛好家父娘用に、金銭のために作曲する苦労を述べたものであろう。アロイジアが奏者だったら、それでも「嫌い」と言ったであろうか。但し、フルートの音程不安定には悩んだようで、2本が同時に鳴る場合の差音の発生を嫌ったのであろうか、彼の2管編成ではフルートは1本の事が多い。
最後に、余談になるが、実際に彼は何曲を作曲したのであろうか。最初の報告(12月10日)では協奏曲3曲と四重奏曲2曲、母への報告(1月31日)では協奏曲1曲と四重奏曲4曲、曲をドジャンに渡したとの報告(2月14日)では協奏曲2曲と四重奏曲3曲。最後は翌年10月3日、帰郷に当り、協奏曲1曲と四重奏曲3曲を持って帰ると言っている。曲数が都度変わるのである。現在、彼の曲として残っているのは、協奏曲2曲(K313,K314)と四重奏曲4曲(K285, K285a, K285b, K298)で、この内、協奏曲K314はオーボエ協奏曲からの編曲。四重奏曲のうちK285a, K285bの両曲は作曲時期や他人の補作/偽作の可能性など疑問点が多く、ドジャンへの引渡し時点では未完であった可能性が高い。K298は後年ウィーンでの作曲である。とすると、引渡したのは協奏曲2曲と四重奏曲1曲と考えられる。編曲の協奏曲を0.5曲とすると、合計1.5+1=2.5曲。約束した協奏曲3曲と四重奏曲2 曲(3+2=5曲)の半分となり、200に対する96の支払いと符合する。編曲は半分以下とされ、更に4フローリン差引かれたのであろう。モーツァルトも当時22歳、独立の時期である。厳格な父親から細かく管理される事に耐えられなかったのであろう、不都合な事態は適当に誤魔化すようになった。そして、彼がウィーンで完全独立を果たすのは、この3年後の事である。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2018年11月会報に掲載)