日本人が初めて接した西洋音楽は、ザビエルを始めとするカトリック系のキリスト教宣教師が、西日本を中心に持ち込んだグレゴリオ聖歌やモテットなどの教会音楽で、16世紀中葉の事である。16世紀と言えば、日本は戦国時代、欧州はルネサンス後期~末期で、次の17世紀はバロック時代である。17世紀初頭には、伊達政宗が派遣した遣欧使節団の一行が、ローマを始めとする欧州各地の教会で、ミサなど本場の教会音楽を聴いている。その後、徳川時代に入りキリスト教禁止令・鎖国令が出ると、西洋音楽との繋がりも一旦断ち切られ、蘭学を通しての細々とした関係になる。
次に日本人が西洋音楽に接するのは、幕末から明治初期である。今度は1853年、黒船と共にやって来た。欧州ではロマン派全盛の時代である。ペリー艦隊の軍楽隊が、停泊中の艦艇の上で毎日音楽を演奏したと言う。彼らは久里浜に上陸し、演奏しながら行進したと言うから、かなりの日本人が聴いたはずで、これが、16、17世紀を除けば、日本で演奏された最初の西洋音楽で、且つ、日本人が聴いた最初の西洋音楽という事になる。その後、開国とともに、横浜の外国人居留地では海岸通りで週2日、野外演奏が行われたが、1865年9月26日の演奏予告プログラムに「魔笛」序曲があり、これが、日本で初めてモーツァルトが演奏された記録となる。日本政府も西洋音楽の導入を急ぎ、軍楽隊の創設、楽器・楽譜の購入、楽員の訓練を行う。国立公文書館には当時の海軍軍楽隊の楽器・楽譜の購入記録が残されており、その中に1876年、「フィガロの結婚」フィナーレの楽譜購入(到着は翌年)があるそうで、実際に演奏したとすれば、これが、日本人による最初のモーツァルト演奏となる。その後、軍楽隊の英国式からドイツ式への転換に伴って、ドイツ音楽の輸入が増え、モーツァルト楽曲の種類も増大する。上記記録によれば、1882年には「魔笛」序曲、その他序曲10曲、「ドン・ジョヴァンニ」抜粋、ハ短調ソナタなどが購入されている。
音楽教育では伊沢修二による欧米での実情調査を基に、1879年、文部省内に「音楽取調掛」を創設、これが後の東京音楽学校、更に東京藝術大学に発展する。人材養成の成果として、1887年、音楽取調掛主催の音楽会が開催され、「交響曲第39番」第3楽章のピアノ編曲版を、山田源一郎という人が演奏している。これが、日本人によるコンサートでの最初のモーツァルト演奏記録である。国民全般への普及のため文部省が特に力を入れたのは一般学校での唱歌教育で、初の小学校用音楽教科書「小学唱歌集初編」を1881年に、以後も続編を編纂して行くが、モーツァルトの作品も、替え歌として、多く使われている。「魔笛」パパゲーノのアリア“恋人か奥さん”が「誠は人の道」、「コジ」第1幕の第2曲(女性の貞操論議)が「桜井」(楠木正成、正行親子の湊川での別れの場面)になった他、「フィガロ」の“手紙の2重唱”、歌曲「春への憧れ」など多数に上る。明瞭で美しい旋律が唱歌に取り入れ易かったのであろう。(西洋音楽の受容については、「協会紹介誌」の末尾に“年表”として纏めてあるので参照方)
このように西洋音楽は日本の国家施策の一環として、迅速に普及が進められるが、それを可能にした大きな要因として、当時の日本人が持っていた“先進の欧米文化への憧れ”が挙げられる。一般に、他国文化の全面的な導入というのは簡単に進むものではないからである。もう1つ注目すべきは、1870-71年の普仏戦争が日本に与えた強烈なインパクトである。それまで数百の諸侯が割拠していた後進国ドイツ(プロイセン)が大国フランスに勝利し、帝国として国家統一を成し遂げたのである。この成功例は、明治維新で中央集権国家となり、欧米先進国を追う立場にあった日本の格好のモデルとなった。陸軍はドイツ式に軍制を改め、政治、法律、哲学、医学など多くの分野でドイツ化が進んだ。音楽も、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスが「3大B」などと称され、器楽優先のドイツ音楽が主流を占める様になる。
さて、モーツァルトを聴いた最初の日本人だが、これは、欧米視察団の一行であったと言われる。1871年、政府は岩倉具視を代表に、木戸孝光、大久保利通、伊藤博文など、約50名の所謂「岩倉使節団」を欧米に派遣するが、彼らは、1872年6月18日、ボストンで開催された、普仏戦争の終結を記念する「太平楽会」に招待される。この使節団に歴史家の久米邦武という人がおり、記録担当として、帰国後、帰朝報告「米欧回覧実記」を執筆・編集する。その中に、この音楽会に関して次の記述がある。「謡婦盛粧シテ壇ニ上ル。金殊爛然タリ。・・・其声ノ玲瓏タル、細ナルハ切々、・・・曲急ニ調促スレハ、鶴唳ノ空ヲ渡ル如ク、乍チ滑ナルハ、流鶯ノ花ニ市スルガ如シ。高声一声・・・乍チ一転シテ玉振ス、鳳凰来儀ノ仁アリ・・・」。要するに、絢爛たる衣装に着飾った女性歌手がステージ上に現れ、玲瓏たる声で高音のコロラテューラを歌ったと言うわけである。当時は作曲家や曲目への認識はまだ浅く、それらの記載はないが、当日のプログラムには「魔笛からの大アリア」が入っており、上記の記述から、これが「夜の女王」ではないかと推測されている。なお、その後1982年、久米氏と、その長男で洋画家の久米桂一郎氏を記念して久米美術館(品川区上大崎)が開館し、上述の「実記」も「プログラム」も同美術館に保存されている。
最後に、「夜の女王」と言えばコロラテューラが有名だが、第2幕のアリアを例にその意味について考えてみたい。勿論、初演で歌った義姉のホーファー夫人の自慢の高音を聴かせるのが第一の目的であったのは間違いない。ただ、モーツァルトは、単に歌手の喉のためだけにコロラテューラを使う事はしなかった。そこには必ず意味があったはずである。先ず、あのキラキラした声色が“夜の星”つまり「夜の女王」の“夜”を連想させる。次に、それが彼女の怒りの激しさを表している。人は、怒りが高まると怒りの言葉を発するが、これが昂じて激怒という状態になると、頭に血が上って自ら興奮し、逆に言葉が出なくなる。「アー」とか「イー」としか言えなくなる。それが彼女の場合、コロラテューラとなって現れるのである。また、このアリアは短調(二短調!)だが、コロラテューラは実は長調なのである。暗い憤怒のアリアの中で、高笑いのような明るいコロラテューラが響く。これはミスマッチではないか?そう、彼女の心のミスマッチなのである。ザラストロを憎む憤怒の心情と、か弱い自分の娘に人の殺害を命ずる冷酷さ、その一種のサディズム的快感が、彼女の心の中で交差する。この心の“ねじれ”が、狂気にも似た高笑いとなって顕現する。このアリアは、従って、高音をただ美しく歌えば良いというものではない。彼女の心に潜む狂気を表現せねばならない。そうして始めて、聴衆は、オペラ全曲中、出番合計約10分という役に万雷の拍手を送り、入場料を支払うのである。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2019年3月会報に掲載)