46.伯爵夫人、ロジーナ

 

伯爵夫人ロジーナとは言うまでもなく、オペラ「フィガロの結婚」のアルマヴィーヴァ伯爵夫人ロジーナである。モーツァルトのこのオペラは、タイトルが示す通りフィガロの結婚が主題で、従ってフィガロとスザンナが主役のように思われるが、そうではない。真の主題は伯爵と伯爵夫人の夫婦関係であり、従って主役も伯爵と伯爵夫人、もっと言えば、伯爵夫人である。本オペラの眼目はフィガロとスザンナが無事結婚出来るかという事ではなく、そういう状況を背景にした伯爵と夫人の葛藤なのである。スザンナは劇の音楽的推進役として最も重要であり、2つのアリアの他、全ての重唱・フィナーレに登場する。謂わば「出ずっぱり」の役であり、彼女次第でオペラ上演の出来が左右されるとさえ言われる。聡明で機転が効くだけでなく、容姿・性格共に魅力的だ。だが、このドラマを本当に動かしているのは伯爵夫人で、計画を企画し、実行し、決着をつける。この過程で、彼女は悩み、苦しみ、最後には夫を赦すまでに成する。彼女は、実は、モーツァルト・オペラに登場する典型的な「成するキャラクター」の1人なのである。他の登場人物、伯爵、フィガロに成の跡はない。スザンナも魅力的ではあるが、ドラマの最初から最後まで同じスザンナである。このオペラは伯爵夫人の成物語なのであり、彼女だけが変し成する。

 

ところで、彼女は中年の女性に描かれる事が多いが、実際の年齢は幾つぐらいなのであろうか。一般には、「フィガロの結婚」の物語は「セビリアの理髪師」の3年後というように言われるが、原作となるボーマルシェの戯曲には特段の記載はない。そこで推測するしかないのだが、「セビリア」での彼女は、バルトロという後見人が付く年齢であり、また、当時の女性の結婚年齢を考えると1516歳という所であろう。その3年後とすれば1819歳。或いは両作の間隔をもう少しく見て、例えば伯爵の7年目の浮気と考えると20歳を少し超える年齢となる。何れにしろ、彼女は若いのだ。「ばらの騎士」の元帥夫人とは違う。人生の秋を感じる年齢ではない。若く溌剌とした女性なのである。次にスザンナだが、夫人よりは少し若い1718歳という所であろうか。フィガロは30歳前後、伯爵は30歳を少し超えた所、ケルビーノは思春期で14歳前後、お相手のバルバリーナは12歳という感じか。皆さんのイメージはどうであろうか。18世紀後半とは日本で言えば江時代であり、男の元服が1416歳であった頃の話である。因みに、各登場人物の初演歌手の当時の年齢は、ルイーザ・ラスキ(伯爵夫人)が生年不詳ながら2225歳、ナンシー・ストレース(スザンナ)が21歳、ドロテア・ブッサーニ(ケルビーノ)が23歳、アンナ・ゴットリープ(バルバリーナ)に至っては12歳である。彼女は 17歳の時に「魔笛」のパミーナも初演している。皆、若かったのである。

 

それにしても伯爵夫妻は変わった夫婦である。絶対王政下の貴族の結婚とは家と家の結びつきであり、家の後継者を残す事であった。彼らは宮殿内に別々の部屋を持ち、別々のサロンを有し、別々の交際相手と付合い、つまり別々の生活を営んでいた。そして公式の行事の時にのみ同席した。これが彼らの結婚生活である。夫婦間の愛情を云々するのは、当時勃興しつつあった市階級の価値観であって、モーツァルトも次のように述べている。「貴な人たちは決して好みや愛情で結婚せず、ひたすら利害やその他諸々の付帯目的があって結婚します。妻がお役目を果たし、不細工な相続人を生み出した後まで妻を愛するなどということは彼らには相応しくない事です。しかし僕ら貧しい平は愛し愛される妻を選ばずにはいられません」(177827日付、マンハイムから父宛書簡)。ところが、伯爵は若い頃の「セビリア」では、分・肩書でではなく、「貧乏な学生としてロジーナの愛を獲得したい」などと純真なことを言っていた。「フィガロ」の伯爵夫人も夫の愛が薄れたことをしきりに嘆いている。愛を大切にしているのだ。これは彼女が「セビリア」時代に市階級の人間として養育された事が影響しているのであろうし、モーツァルトの価値観をも反映している。遊戯の愛から真実の愛へ。フランス命が元に迫る中での貴族的価値観から市的価値観への劇的な変である。

 

さて、伯爵夫人はこのオペラで1つのカヴァティーナ(第2幕冒頭)と1つのアリア(第3幕)を歌う。よく知られているように、両曲とも冒頭の旋律が「戴冠式ミサ曲 K317」のアニュス・デイの旋律と類似している。特に第3幕のアリアは酷似している。当時、宗教音楽であるミサ曲の旋律を世俗音楽であるオペラに転用する事は法度とされていた。宗教を汚すものとされたからである。その点でこの曲は随分批判された。彼はどういう意図でこの旋律を持ってきたのであろうか。ただ単に、その旋律が美しく気に入っていたからであろうか。そうではあるまい。アニュス・デイの歌詞、「神の羊、世の罪を除きたたもう主よ、我らをあわれみたまえ。我らに平安を与えたまえ」、を考えて見れば分かる。これは祈りなのである。彼女は神に祈っているのだ、自らの心の安寧を。だからこそ彼はこの旋律を使ったのだ。彼にとって真実の「祈り」には聖も俗も無かった。「祈り」が真正なものである以上、どうして聖と俗に分けられよう。

 

彼女は夫を赦す。何故赦したのだろう。その前に、何故彼女は侍女と衣装を入れ替えるなどという事をしたのだろう。危険を冒してまで何を狙ったのか。実は、彼女は夫のスザンナへの愛情の深さを知りたかったのだ。どのぐらい本気なのか、セビリアで自分に愛を打ち明けた時と、どちらが深いものだったのか。そのためにはを以って知るしかない。 代わりをして始めて夫のスザンナに対する愛の深さを知る事が出来る。そして暗い闇の中でスザンナとして夫と交わった彼女は確信したのだ。あの時の自分に対する愛情の方がはるかに深かった、あれは本当の愛であったと。だから彼女は夫を赦した。彼女は夫がもう二度と浮気をしないと信じたであろうか。そうではないだろう。同じことは繰り返されるかも知れない。だが、信じる他にどんな道があると言うのか。赦しを乞う夫に対して彼女は答える。「私は貴方より素直ですから、はいと言います」。これだけである。相手を信じて無条件に赦す。そこに何の保証も求めはしない。―― これが、オペラ「フィガロの結婚」の思想であり、神髄である。そうでなければどうしてコラール合唱などが続いて歌われたりするのか。「人類皆友達」と、肩を組んで合唱するのも良いが、人類の真の融和とは、本当の平和とは、伯爵夫人のこの静かな「祈りと赦しの心」からしか生まれて来ないのではないか。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

20199月会報に掲載)