モーツァルトの生涯は35年10ヵ月という短いものであったが、それにも拘らず、起伏に富むと同時に極めて充実したものであり、1つの完結した人生というものを感じさせる。それはそこに、人生の完結に不可欠な「円熟」と「晩年の境地」という最後の2段階の何れをも見いだすことが出来るからである。シューベルトの人生に未完、夭折のイメージが強いのは、その音楽に「晩年の境地」を欠くからである。モーツァルトの場合、円熟とは、1785年に始まり「ダ・ポンテ三部作」を中心に1788年夏の三大交響曲で掉尾を飾る古典派音楽の完成であり、晩年の境地とは、同年秋の「弦楽三重奏曲」K563に始まる「孤高の心境」への到達である。僅か35歳でこの境地に到達するため、彼は人生を通常人の2倍の速度で駆け抜けなければならなかったが、人生のサイクルは回しきったと言える。その意味で、彼に「晩年の境地」を十全に表現する余裕を与えた最後の1年、1791年は、極めて貴重であったと言わざるを得ない。この最後の1年を欠くならば、その人生のイメージは随分と違ったものとなり、未完という印象を与えるものとなったであろう。なぜなら、彼がその最終的且つ究極の境地を語ったのは、最後の年の作品群だからである。この「晩年」への契機となったのが1787年である。
その36年弱の生涯の中で転機と言われる大きな事件は、ハイドン、バッハ、ヘンデルの音楽との出会いなど純音楽的な事件を別にすれば、(1)1778~79年のマンハイム・パリ旅行での母の死、失恋、就職活動の失敗、(2)1781~82年の父からの独立と結婚、(3)1787年の父と親友の死、の3つと言われ、その何れもが彼の音楽創造に強い影響を与えた。その最後のもの、1787年は、死の濃い影に覆われた年であった。この年、彼は2人の親友の死、父の死、愛鳥の死、更には自身の重病に遭遇する。また、その前後の年には生まれたばかりの幼い子供2人を失っている。こうした親しい人たちの相次ぐ死により、彼は、生とは何か、死とは、人生とは、という生涯を通じて考察を重ねてきた問題をここで改めて突きつけられたのであり、それらに対する深い省察の中で、晩年の孤高の境地に至る道筋を見極めて行ったのである。
この年、1787年早々の1月31日に、フリーメイソン活動や演奏を通じて親交を深めていた親友のハッツフェルト伯爵を突然の病で失った。モーツァルトと同年齢の31歳であったが、ヴァイオリン演奏に秀で、「ハイドン四重奏曲」などを一緒に演奏した仲でもあった。有名な「ロンド イ短調」K511(3月11日作曲)は伯爵への哀悼の意を込めた曲とも言われる。9月3日には、彼の主治医であり、ザルツブルク以来の古い親友だったバリザーニ医師が29歳の若さで世を去った。同医師はザルツブルク大司教侍医の息子で、兄は父レオポルトの主治医であった。1784年と1787年の2度までもモーツァルトの命を病気から救った救世主であったが、ウィーン総合病院の医師長として研究に従事する中での感染による殉職であった。モーツァルトの落胆は大きく、自分の記念帳に「今日、僕はこの気高い人物にして最愛の友であり命を救ってくれた人を、まったく思いもかけず死によって失い、本当に不幸だ。 安らかであれ!・・・あの世で君に再び会うまでは僕の心に真の平和はない」と書き記した。2人の親友とも30歳前後の夭逝であり、彼に人生のはかなさを感じさせたであろう。
4月、モーツアルトは父の病が重いのを知り、その死生観を表明した有名な手紙を送る。「死は(厳密にいえば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはここ数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿は・・・大いに心を安め、慰めてくれるものになりました!」(1787年4月4日付、レオポルト宛書簡)。その父は5月28日に亡くなる。訃報に接したモーツアルトは、友人に宛てて次のように書き送った。「ぼくの最愛の父が亡くなったという悲しい知らせを受け取った。ぼくの心のうちを察してくれたまえ」(1787年5~6月書簡)。モーツァルトにとってレオポルトは、自分を育ててくれた父、音楽上の恩師、人生の導き手であった一方、専制者、抑圧者の一面もあり、克服すべき相手でもあった。その意思に反して彼が強行した独立と結婚は自身の自立を実現したが、この一種の反逆は精神的なトラウマとして彼の裡に永く残った。その父の死である。心にぽっかり穴が開いたことは想像に難くない。この父の死と前後して、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の作曲が開始される。父と子の関係を主軸に、死によって始まり死によって終わる、この生と死のドラマを作曲しながら、彼の脳裏から父レオポルトの姿が消えることはなかったであろう。
父の死と同時期の4月中旬、彼自身もかなり重い病気に罹っている。そのため、父を見舞うことも葬儀に参列することも出来なかったが、この病気を看たのがバリザーニ医師だった。病名は不詳だが腎臓病ともリューマチ熱とも言われる。この病気の再発が1791年の死に繋がったとの説もあるほどで、再発すれば今度は命が危いと同医師から告げられていたかも知れない。ト短調の弦楽五重奏曲K516(5月16日完成)が書かれ、歌曲「夕べの想い」K523、「クローエに」K524(共に6月24日完成)など、死の影に覆われた作品が多く生み出されたのもこの前後である。更に、小さな者の死が2つと別離が1つこれに続く。(1)1784年に購入しそれ以来彼をそのさえずりで楽しませてきた愛鳥のむく鳥が6月4日に死んだ。この鳥は、ピアノ協奏曲ト長調K453の終楽章変奏曲主題を歌えたそうで、彼はその鳥に哀悼の詩を捧げ、その中で「彼を思い出すたびに私の心は血を流す」と書き記した。(2) 1787年の前後、86年11月に三男のトーマス・レオポルトを、88年6月に長女テレジアを夫々生後間もなく亡くしている。6人の子供のうち成人したのは2人だけで、4人の子供の死という不幸を味わったのである。(3)「フィガロの結婚」のスザンナの初演歌手であったナンシー・ストーレスが2月にイギリスに帰国したのも彼には辛い別離であった。彼女には好きという以上の感情を抱いていたと言われ、その告別演奏会用に名作「劇唱とロンド」K505を作曲し、自身はピアノで伴奏をした。
1787年はまた、4月にヨーゼフ2世による対トルコ戦争が開始され、それによる景気の悪化と音楽需要の低迷により彼の生活も漸く苦しさが増してきた年でもあった。このような生活苦と死と別離の暗い影の下で、翌1788年夏の三大交響曲以降、彼の音楽には明らかな変化が現れる。その最初の現れは弦楽三重奏曲K563に顕著である。その特徴は、死と親しむ中での音楽の平明化と透明化、純化と浄化であり、そのことは、その後に続く、クラリネット五重奏曲K588、ピアノ・ソナタK570(89年)、オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」(90年)、最後の年のピアノ協奏曲K595、弦楽五重奏曲K614、ホルン協奏曲K412/514、オペラ「魔笛」K620、そしてクラリネット協奏曲K622などの主な作品群を見れば明らかであろう。これらの作品は全て長調であり、彼は長調の世界で音の純化を図ったのだ。85年~88年夏の円熟期には盛んに短調で名作を世に送り出したモーツァルトだったが、88年夏のト短調交響曲K550を最後に、それ以降大きな作品では、最後の「レクイエム」を除いて、短調の作品は1曲もない。短調によるデモーニッシュな力の誇示を放棄したのである。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2016年10月会報に掲載)