アロイジア・ヴェーバー(1760頃-1839)は、マンハイム宮廷劇場のバス歌手兼プロンプターで写譜業も営んでいたフリードリン・ヴェーバーとその妻チェチーリアの次女で、モーツァルトが初めて真剣に恋をした「初恋の人」である。夫妻には4人の娘がおり、⻑女は後に「夜の女王」の初演歌手となるヨゼーファ、三女はモーツァルトの妻となるコンスタンツェ、四女はモーツァルトの臨終を看取ることになるゾフィーである。アロイジアは美人でおまけに歌が上手く、姉妹の中でも光った存在だった。1778年 1 月、当時就職を目的にマンハイム・パリ旅行中であったモーツァルトは、当地でフリードリンに写譜を発注する際にアロイジアに引き合わされ、たちまち惚れ込んでしまう。兼業で 6人家族を細々と養っていたフリードリンには、モーツァルトは将来有望な成⻑株と見えたのであろう。惚れ込んだモーツァルトは、彼女に4ヶ月に亘る歌唱指導を行うと共に、「コンサート・アリア」K294を作曲し彼女に贈る。挙げ句の果ては、彼女を歌手として本場イタリアで売り込もうと、自分はオペラ作曲家兼保護者として、彼女を連れてのイタリア遠征の計画を立て、父レオポルトに助力を依頼する。しかし依頼の手紙に仰天した父から、「お前は何を考えているのだ、女にうつつを抜かしている場合ではないのだ。第一、そんな計画がうまくいくはずがない。旅の目的を忘れたか、就職だ。パ リへ発つのだ、今すぐに!」(1778年2月 12日付書簡)と一喝され、泣く泣くアロイジアと別れ、パリに向かう。実は彼もこんな計画が認められるとは思っていなかっただろう。唯、唯、彼女と一緒に居たかったのだ。
モーツァルトはパリ到着後も、就職活動の傍ら、自作の「コンサート・アリア」K272 を教材に歌唱指導を記した手紙を彼女に送るが、これは、その底には明らかな慕情が漂っており、要は、歌唱指導に名を借りた恋文である。彼女の歌唱能力に惚れた面もあったではあろうが、その恋は真剣なものであった。文体も極めて真面目なもので、僅か数ヵ月前に書いた従妹ベーズレへのダジャレと糞尿譚に満ちた手紙とは対極のものである。彼は返信を求めるが返事は来ない。パリでの 6ヶ月に亘る苦闘の末、就職活動に失敗した彼はザルツブルクへの帰還を父に指示され、1778 年 9 月、帰途につく。その頃、アロイジアはバイエルン選帝候カール・テオ ドールの寵愛を受け、ミュンヘンの宮廷歌手として年棒 1,000グルデン(1,000万円)の高給を食む立場となっていた。「あのモーツァルトに歌唱技術を認められた」ことが彼女の評判を高めたからである。ザルツブルクへの帰途、ミュンヘンでアロイジアに再会したモーツァルトはそこで彼女に求愛するが、すげなく拒絶される。無職のままパリから戻ってきたモーツァルトは負け犬であり、 もう用はないのであった。彼はクラヴィーアのところへ飛んでいって声高に、「ぼくを好いてくれぬ娘っ子なんか喜んで捨ててやるさ」と歌ったというが、故郷の父に向かっては「今日は泣く以外のことは出来ません・・・」(1778年12月29日付書簡)とそのショックを隠していない。そして 1779年 1月、悄然とザルツブルクに帰還する。その後、アロイジアはウィーンのドイツ・オペラ劇場へ 就職し、ヴェーバー家もそれを機にウィーンに移住する。アロイジアは宮廷劇場の俳優で画家でもあったヨーゼフ・ランゲと結婚し、カテリーナ・カヴァリエリ、テレーゼ・タイバーと並ぶプリマドンナとなる
一方モーツァルトは、一旦はザルツブルクに帰郷したものの、2年半後、大司教との大喧嘩の末、ザルツブルクを飛び出し、独立する。そして、ウィーンに定住するが、そこでヴェーバー一家と再会する。夫のフリードリンが死亡したため、ヴェーバー夫人は、娘の婿探しが目的であろうが、独身者用の下宿を営んでいた。そこに転がり込んだモーツァルトは、今度は三女コンスタンツェを 引き合わされ、結婚する。ウィーン初期の活躍を見込まれたのであろう。モーツァルトとアロイジアは義理の関係になったのである。モーツァルトは依然としてアロイジアに未練があった。一方、アロイジアも、モーツァルトの売れっ子ぶりと華麗な生活を見て彼を見直す。ウィーン時代、この2人の音楽活動上の関係は永く継続するのである。モーツァルトは彼女のために上述のK294の他、2曲(K316, K538)のコンサート・アリアを作曲し、しばしば一緒に演奏会に出演する。これらのアリアは何れも高度のコロラトゥーラの技術と微妙な感情表現とを要求する難曲で、驚異的な高音と豊かな感情表現力を併せ持つ彼女の高い歌唱能力を示している。「劇場支配人」のヘルツ夫人、「ドン・ジョヴァンニ」ウィーン上演のドンナ・アンナ役も彼女であり、その他、彼女のために4曲の差替えオペラアリアも作曲している。要するに仲が良いのである。妻のコンスタンツェは面白くなかったであろう、嫉妬もしたであろう。後年コンスタンツェは、モーツァルトの女性関係で、夫婦でよく言い争いをしたと述懐しているが、これも原因の1つではなかったか。アロイジアは1783年のブルク劇場でのドイツ・オペラ終焉後もイタリア・オペラで活躍した。モーツァルト死後の1792年までウィーンで活動を続け、1795年のランゲとの離婚後はコンスタンツェと共に各地を演奏旅行している。そして晩年はコンスタンツェ、ゾフィーと共にザルツブルクに居住し、1839年に79歳で亡くなった。
アロイジアとモーツァルト、数奇な関係ではある。仮装舞踏会などでお互いが顔を合わせたとき、どのような感情が2人の間に走ったであろうか。モーツァルトにとってアロイジアは初恋の人であり、妻コンスタンツェへの愛とは別に、その⻘春の思い出と共に 忘れえぬ人で有り続けたであろう。アロイジアも後年、イギリスの出版商ノヴェロ夫妻の訪問を受けた際、「モーツァルトは死ぬまで私を愛してくれました」と述べている。一方、彼女はモーツァルトをどう思っていたか。「何故、求婚を断ったのか」と問われ、「わかりません。あの頃はどうしても彼を愛することが出来ませんでした。彼の才能も愛すべき人柄も分かっていなかったのです。 後でとても後悔しました」と語ったそうである。後悔したというのは本当であろう。では、もし、あの時モーツァルトの求愛を受けていたら? ― しかし、過去は戻らない。歴史にも人生にも「もし」はないのである。だが、想像は許されるであろう。才能があって美人で華麗なアロイジアは、案外モーツァルトにとって、妻としては扱いにくい存在、翻弄され、作曲どころではない、と言うことになったかも知れない。妻としては地味なコンスタンツェでよかった。アロイジアにとっても夫の奔放な生活について行けたか。共に職業を持ちプライドの高かった2人は別居同然のバラバラな生活を送ることになったかも知れない。であれば、案外、現実の2人の関係、才能ある芸術家同士としての関係が最善だったのではあるまいか。モーツァルトが惚れたのも実は彼女自身ではなく、その優れた歌唱能力だったのかも知れない。何れにしろ、彼女への満たされない愛が、愛に対する彼の認識を深め、そのオペラ創造の強力な源泉となったことを考えれば、この関係こそ実は天の配剤であった。そう言ったら天国のモーツァルトは何と答えるであろうか。「人の失恋を喜ぶな」と怒るであろうか、或いは、「もっともだ」と頷くであろうか。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2016年11月会報に掲載)