1777年9月23日の早朝6時、モーツァルトは⺟と2人でザルツブルクを出立した。目的は、ミュンヘン、マンハイム、或いはパリでの就職である。故郷での職を辞しての旅であった。一家の収入を確保するため、父レオポルトは辞職せず、同行出来なかった。ミュンヘンでの最初の活動に失敗し、次なるマンハイムへの旅の途上で、彼らはレオポルトの故郷であるアウグスブルクへ立ち寄 る。約2週間の滞在であったが、ここでモーツァルトは生涯彼の心に残る 2つの事件に遭遇する。 1つはクラヴィーア製作業者のシュタインを訪問したことで、彼はそこで当時最先端のピアノフォルテを見学し、試奏した。このシュタインのピアノフォルテは彼を驚嘆させたようで、如何にそれが優れたものであるかを父宛の書簡で興奮気味に語っている(1777年10月17日付)。その時、彼は、 ピアノという楽器が持つ豊かな将来性・発展可能性を見たのである。事実、これ以降、彼のピアノ・ソナタは明確にピアノのための音楽となってくる。それは、その後の最初のソナタ(K309)と以前の 6曲のミュンヘン・ソナタ(K279-284)とを比較してみれば明らかであろう。なお、上記の手紙にシュタインの娘マリア・アンナが登場するが、彼女は成人してシュトライヒャー夫人となり、ウィーンでピアノ製作者として成功する。
もう1つの事件が今回のテーマであるベーズレ嬢(1758-1841年)との出会いである。ベーズレ嬢は、正式名をマリア・アンナ・テークラと言い、レオポルトの弟でアウグスブルク在住のフランツ・アロイス・モーツァルトの娘である。つまり、モーツァルトの従妹で、ベーズレとは「従妹ちゃん」とでもいった意味だそうである。この時、モーツァルト21歳、彼女は19歳であった。彼らは会う早々意気投合し楽しい2週間を過ごした。モーツァルトによれば、彼女は「美しくて、賢く、愛らしくて、如才がなく、陽気です。その上、少しばかりお茶目さんです」(上記書簡)ということであった。音楽的才能はなかったが、可愛く、コケティッシュな女の子だったようである。彼らはダジャレを言い合い、誰彼となく他人をこき下ろしては楽しんだ。手紙で報告を受けたレオポ ルトは2人の関係に危険を察知し、彼女の身持ちが良くないことを示唆しながら、本来の目的地であるマンハイムに向かって早々に出立するよう指示する。2人の交際は余りに楽しいものであったため、別れは、悲嘆にくれた悲しいものとなった。だが、2人の関係がこれで切れたわけではない。
モーツァルトは続く旅の途中で彼女に手紙を書く。これが有名なベーズレ書簡と言われるもので、全部で12通ほどが書かれたが、現存するのは9通である。その内容はと言えば、ナンセンスと糞尿譚の満載なのである。ナンセンスの内容は多彩で、ダジャレ、意味のない同義語の連鎖、脚韻による単語の羅列、逆さま文章、動詞活用変化の連続などで、このナンセンス文章に得意の糞尿譚が加わるといった代物である。幼稚といえば幼稚、下品といえば下品。彼のパパゲーノ的本能が爆発したのであろうか。或いは、就職活動という重い負担との精神的バランスを取ったのであろうか。それは兎も角、そこには、ある言葉をキッカケに次々とその連想の鎖を紡いで行く遊びの精神がある。言葉の連鎖には何か論理的な繋がりがあるわけではない。単語の音や意味に触発されて、彼の直感が、その連鎖を紡ぎ出して行くのであり、そこに我々は、彼の音楽と共通する、物事のある自然な流れを見ることができる。主題は生み出されるや否や直感に従って、変形され、引延ばされ、やがて突然の転調を迎え、展開されていく。彼はここで、普段、音楽で行っていることを言葉で行っているのだ。これが恋文と言えるかどうかは兎も角、彼らしい愛情が感じられ、ベーズレはこれを楽しく読んだであろう。これらの手紙は19世紀を通じて永く日の目を見ることなく隠された。モーツァルトの品性を損なうものと考えられたためである。初めて公刊されたのは、国際モーツァルテウム財団によるモーツァルト書簡全集として、20世紀も半ばを過ぎた1962-63年のことであった。
この一連の手紙は、どういう経緯かはわからないが、1799年には未亡人のコンスタンツェが所有していた。一般には、ベーズレが、1782年にモーツァルトがコンスタンツェと結婚した時に、つまり、自分との結婚の可能性がなくなった時点で、気持ちの整理を付け、モーツァルトに返却したものを、コンスタンツェが承継したと考えられているが、はっきりした証拠はない。これらは、 コンスタンツェの死後、⻑男であるカール・トーマスに遺贈され、彼は一時真剣にこの手紙の破棄を考えたそうである。紛失した3通はここで破棄されたとも考えられる。面白いのは、自分に不利な手紙や夫の神聖化に反する手紙の多くを破棄したと言われるコ ンスタンツェが、これらの手紙に関しては、その公表は拒否したものの、破棄はしなかったことである。つまり、18世紀の南ドイツではこれらは普通の日常表現であり、自慢になるものではないものの、必ずしも汚点とはならないと彼女は判断したということである。一方、19世紀の人であるカール・トーマスはこれの破棄を真剣に考えている。18世紀と19世紀の倫理観の違いを端的に物語る挿話ではないだろうか。なお、この書簡は、20世紀の一時期、作家のシュテファン・ツヴァイクが所有していたそうである。
2人の関係であるが、結局パリでの就職活動に失敗したモーツァルトは、ザルツブルクに帰郷する直前に立寄ったミュンヘンに彼女を呼出している。そこで彼はアロイジアに求婚するのであるが、恐らく、それが不調に終わることを予感して、慰め役を期待したのであろう。失恋後は彼女を連れて帰郷している。⺟死亡、就職失敗、失恋という三重苦を背負って1人故郷に帰る身にとって、明るい彼女の同道は救いであった。彼女は彼の家に1ヶ月以上滞在するが、しかし2人の関係は進まなかった。その後、彼からの最後の手紙はウィーン移住後の1781年10月であるが、ここではもう非常に醒めた形式的な手紙となっている。既に、コンスタンツェとの関係が進んでいたからある。結局、モーツァルトにとって、ベーズレは付合って楽しい女友達ではあったが、それ以上の存在ではなかったようである。一方、ベーズレはモーツァルトが好きだったし、結婚したいと願っていたであろう。よく気が合ったし、何と言っても相手はヨーロッパ中に名前が知られたセレブだった。彼女への糞尿書簡がやがて真面目なものとなり、結婚の申し込みとなる時を期待した。だから、誘われてミュンヘンにまで出かけたのだ。だが、その時は来なかった。彼女は書簡を返還して気持ちの整理を付け、自分の生き方を生きるが、レオポルトの予言は当たり、さる神父との間に私生児を産む。そしてバイロイトに移りその地で83歳の天寿を全うした。2人の間の性的関係については学者の間でもいろいろ議論があるが、決定的証拠はない。こんなことを250年もたってほじくられるのは、彼にとっても迷惑な話であろうが、まあ、有名税であろう。ともあれ、ベーズレと戯れた⻘春の思い出と彼女の面影は生涯彼の心に焼き付いて離れなかった。最後のオペラ「魔笛」に登場するパパゲーナこそ、その面影を伝える人物ではなかったか。我々はそこに、ベーズレとはしゃぎ回る、⻘春のパパゲーノ・モーツァルトを見るのである。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2015年10月会報に掲載)