1781年7月25日、モーツァルトは父レオポルトに書簡を送り「今は音楽活動が大切な時期で結婚のことは全く考えていない」と述べ、続いて「彼女に惚れているわけではありません。暇な時には、ふざけたり冗談を言ったりします。そしてそれだけのことです。それ以外のことは何もありません。もし僕が冗談を言った人全部と結婚しなくてはならないとすれば、少なくとも200人の妻を持つことになるでしょう」と書いている。これが有名な彼の「200人の妻」発言であり、彼女とはコンスタンツェのことである。ウィーンで独立直後のモーツァルトは、ウェーバー夫人の営む宿屋に宿泊しており、夫人の娘のコンスタンツェと交際を始めていた。それが評判になってザルツブルクに伝わったらしく、父から詰問されたのである。彼は手紙では上記のとおりその噂を否定しているが、実際には翌年に彼女と結婚しており、取り敢えずの言い逃れであろう。それは兎も角、彼の「妻」は、その後のウィーンでの10年余りの間に400人くらいに増えたかも知れない。オペラ歌手や支援者など女性の知合いが多く、ピアノの生徒は多くが女性であった。「冗談を言う」機会も多かったであろう。その中で彼が特別の親愛の情を寄せた女性は誰だったのであろうか。
筆頭は、何といっても、この人、夢見るような瞳を持った美女、アンナ・セリーナ・(ナンシー)・ストーレス(1765〜1817)であろう。オペラ「フィガロの結婚」のスザンナの初演歌手であり、当時21歳、アロイジアの後モーツァルトが最も真剣に恋した人である。小柄でややぽっちゃりした容姿やその軽い声質、明るくお茶目でよく気が付く性格はスザンナそのものであり、逆に、スザンナは彼女のイメージから造り上げられたとも言える。アロイジアやカヴァリエーリ嬢のような高音や華やかなコロラテューラ技術には恵まれなかったが、美しい声と類希な音楽性、優れた演技能力、愛すべき性格を備えていた。彼女の舞台を見た或る男爵は「彼女は天使のように歌った。彼女の美しい服、白い首、美しい喉、瑞々しい口は魅力的な印象を与えた」と日記に書いている。肖像画を見ても美しい女性で、その美しい容姿と白い肉体、魅力的な性格はモーツァルトを魅惑して止まなかった。
彼女はイタリア人の父とイギリス人の⺟を両親にロンドンで生まれた。10歳で早くも初舞台を踏んだ後イタリアで勉強し、16歳の時にミラノのスカラ座にデビュー、それがウィーン宮廷の目にとまり、1783年にイタリア歌劇団の一員としてブルク劇場と契約することとなった。ウィーンではヨーゼフ2世の寵愛を受け、高い人気で高額の年棒(1,000ドゥカート:約4,500万円)を得た。夫が暴力を振るうという不幸な結婚をするが、この夫はヨーゼフ2世の計らいでウィーンを追放される。1787年2月末、イギリスに帰国するに当たり告別演奏会を開くが、モーツァルトはアリア「どうしてあなたを忘れられよう」K505を作曲し、ピアノパートを自身で演奏した。この曲はソプラノ独唱とオーケストラ伴奏に加えて、ピアノも独奏として加わるという異例の形を取っており、この独唱とピアノが曲中で絡みあう様から、彼らの性的関係を云々する意見もあるが、どうであろうか。むしろ、情欲の高まりをよく芸術に昇華したというべきであろう。何れにしろ、この曲は、彼女に対する彼の思慕と別離の辛さを余すところなく披瀝した絶唱であり、彼の数あるコンサート・アリアのみならず全作品中でも屈指の傑作である。モーツァルトはイギリスへの音楽旅行を計画し、帰国後のナンシーとも交信を行うが、お互いの手紙は残されていない。なお、彼女はフィガロ役のべヌッチとも恋仲であった。
次はヨゼーファ・ドゥーシェク夫人(1754〜1834)となろうが、彼女はプラハ在住のオラトリオ歌手でモーツァルトよりも2歳年上、夫は24歳年上の音楽家であった。1777年に親戚の家があるザルツブルクを訪問した際にモーツァルトと会い、お互い気に入ったようで、その交友は生涯続いた。かなりの美人であったと伝えられるが、残された肖像画は中年のもので良く分からない。快活な性格でモーツァルトのパトロン的役割も果たし、後年、「フィガロ」のプラハでの上演を企画したのも彼女である。「ドン・ジョ ヴァンニ」の作曲に当たっては自分の別荘「ベルトラムカ荘」を提供している。ウィーンでは演奏会で共演もしていて、モーツァルトは彼女のために2曲のコンサート・アリア(K272, K528)を作曲しているが、何れも難曲で彼女の高い歌唱能力を示している。 と、ここまでは良いのだが、問題なのは1789年のモーツァルトのベルリン旅行に絡んでの話である。プロイセンのヴィルヘルム2世の招きという名目での旅行なのだが、途中プラハ、ドレスデン、ライプツィヒを経由する。その際、彼女は“たまたま”自宅のあるプラハには居らずドレスデンに旅行中で、2人はそのドレスデン及びライプツィヒで会っている。モーツァルトがヴィルヘルム2世に招かれたという確たる証拠はなく、この旅行は目的も成果もはっきりしない。コンスタンツェは2人の仲を疑ったであろう。自分を残して旅に出た夫が馴染みの女友達とその家の外で会っているのである。不倫の証拠はないが、疑惑は残る。
テレーゼ・フォン・トラットナー夫人(1758〜1793)についても色々な噂がある。トラットナー夫人の夫は書籍出版商として名をなした富豪でトラットナー邸を有し、モーツァルト夫妻も1784年にはここの部屋を借りて住んでいた。夫人は優れたピアノ奏者でモーツァルトの弟⼦であった。彼からピアノの幻想曲とソナタ(K475, K457)という名曲を献呈されているので、確かに優れた奏者だったのであろうが、この、先生と女弟⼦というのは、何かあってもおかしくない関係ではある。殊に、女弟⼦が美人の場合には。 この他、ホーフデーメル事件というのがあり、これはホーフデーメル夫妻に纏る話で、モーツァルトの死の直後の12月6日に夫が、妊娠している妻マグダレーナに刃物で重症を負わせ、自らも喉を切って自殺するという事件である。事件の原因は不明だが、彼女はモーツァルトのピアノの弟⼦で当時25歳、美人の誉れが高く、身籠っていたのが実はモーツァルトの⼦だったとの噂があった。これらの他、彼のパトロンだったトゥーン伯爵夫人、ピアニストで2曲のピアノ協奏曲(K449,453)を献呈されたプロイヤー嬢、「後宮からの誘拐」のコンスタンツェ役のカヴァリエーリ嬢、ブロンデ役のバラニウス嬢、「魔笛」パミーナ役のゴットリープ嬢、パパゲーナ役のゲルル夫人など、彼が冗談を言った相手は枚挙に暇がない。
400人の妻が相手ではコンスタンツェも対応が大変で、時には爆発した様だが、多彩な女性との交際が彼の音楽の持つ多様性を増し、比類ないものにしたことを考えれば、彼女の苦労も無駄ではなかった。彼女自身も、夫の行為の腹いせであろうか、バーデンで温泉療養中に浮いた噂を流してモーツァルトを心配させている。人生の前半は自由奔放な天才作曲家、後半は誠実に彼女を支えた堅実な外交官と、2度の結婚で波乱と安定の両極端を経験した。そして「2度とも幸せでした」と言えたその生涯は、女冥利に 尽きるのでないか。モーツァルトの女性関係について言えば、個々にどの位深い関係だったかは確たる証拠もなく不明である。この種の話は手紙や文書には残さないからである。全般的な印象としては、ザルツブルク時代は父親の監視もあり相当自制をしていたが、独立してからは、特に後半、ややタガが外れぎみになった感は否めない。男というものは、妻への愛とは別に、美女を見れば本能的に心が揺らぐものだからである。だが、それは関係者一同の問題であって他人、まして後世の者が詮索すべきものでもあるまい。モーツァルトも苦笑しているであろう、音楽よりもこちらの問題の方が難しかった、と。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2017年2月会報に掲載)