先日、ある漫画本的入門解説書を読んでいたら、魔笛の主題は「性欲である」と書いてあった。これには驚いたが、確かに理由がないわけではない。このオペラでは、どの登場人物も皆「抱きたい」相手を求めて行動し、そういう人たちが集まって物語を構成している。「このオペラは愛に満ちている」と言っても良い。劇の冒頭、3人の侍⼥達が気絶したタミーノを見て、「私が守ってあげる」、「いや、私が」と言い合うが、要するに「私が、この王子様を抱きたい」、「いや、私よ」と争っているわけである。一方、タミーノはパミーナの絵姿を見ると直ちに惚れ込む、つまり「この人を抱きたい」という気になる。真面目一方で⼥性の経験が少ないため、美人を見ると直ぐにその気になるのである。⼥王におだてられて良い気になり、美⼥の救出という一大決心をするが、敵地でちょっと相手に説得されるとコロッと気が変わり、苦悩もなく今までの味方を簡単に裏切る。信念がないというか、未熟というか、もう少し自分の頭で物事を真剣に考えて欲しいものである。沈黙の試練の際、3人の侍⼥達に誘惑されるがこれを拒絶出来るのは、この男が精神的に未熟で、成熟した大人の女性の相手が出来ないからである。火と水の試練では、パミーナに「私が導いてあげます。貴方は笛を吹きなさい」と指示され、彼⼥に指導されて試練を受ける。要するに、この男がやることは「気絶することと笛を吹くこと」だけで、主体的に何かをする気は全くなく、何時も他人のお膳立てを待っているのである。この自⼰中の⻘⽩い優等生風カマトト・テノール男はもう少し何とかならないか。「後宮」のベルモンテといい勝負で、こんな男が聡明な美⼥パミーナを獲得するのでは、人生が何だか悲しくなる。パミーナも、相手が王子だと聞くと直ぐに「イカれて」しまう。これも経験不足からか、王子様なら中身がどうであれ、直ぐにその気になってしまうのである。この2人は本音の欲望を隠したカマトト夫婦である。
彼らと対照的な正直者コンビがモノスタトスとパパゲーノだ。モノスタトスはパミーナを「抱きたい、抱きたい」と本当に正直だ。月の光の下で眠っている彼⼥の⽩い肉体を見つめ、「抱きたい、抱きたい、抱きたい」、だからその間、「お月さん、隠れていておくれ」と頼む。これがダメだと、今度は夜の⼥王に寝返ってパミーナとの結婚の約束を取付ける。あっぱれなパミーナ一直線男だが、最後が奈落の底とは気の毒な気もする。⽩い娘への彼の恋が成就しなかったのは、彼が⿊いからか。僕らは彼の無念をわかってあげる必要がある。モーツァルトは彼のアリアに実に素晴らしい音楽(全篇弱音で歌われる)を与えた。メロディはピアノ協奏曲K271第3楽章冒頭主題からの引用である。正直者第2はご存知パパゲーノ(+パパゲーナ)であるが、彼も、「抱きたい、抱きたい」で、アリア「娘っ子か、可愛い⼥房」(第2幕、第20番)では既に気持ちが先走っている。そして最後の「パパパの二重唱」では、遂に願いが叶い手放しの喜びようである。このように、「魔笛」は、性欲を基にした「愛と生命賛歌」のオペラなのであるが、例外が1人いる。夜の⼥王である。この人はタミーノに欲求を向けてもよい様なものだが、どうもこの男が頼りなく見えるらしい。蛇に襲われて気絶するような男は最初から信用していなかったのか。それは兎も角、彼⼥は、第2幕のアリアではヒステリー気味で性的欲求どころではなく、復讐に凝り固まっている。分らないのは、何故頼りないタミーノなどに救出を頼んだかである。娘に会いにザラストロの聖堂に自力で侵入出来るのなら、最初から自分で行けばよいではないか。最後は、「ザラストロ憎し」の余り、自分の娘をモノスタトスに与えるという始末で、これでは娘の救出という当初の目的と本末転倒ではないか。無茶苦茶である。
以上のようなわけで、このオペラは、「無茶苦茶⼥王」と「抱きたい人たち」のオペラなのである。人生の最後にモーツァルトは不思議なオペラを書いた。こんな単純な「抱きたい、抱きたい」から、史上空前の感動オペラを作り上げた不思議さを何というか。結局、人間はなんのかんのと言っても、求めるものは権力であり、富であり、名誉なのだが、究極は「抱きたい」である。これは動物である人間の宿命で、煎じ詰めれば、皆そのために日々辛苦精勤しているのであり、スキあらばその機会を狙っているのである。大体、オペラや小説など殆ど「抱きたい」が主題ではないか。で、「魔笛」の主題は「抱きたい」で良いとして、台本はどうか。古来、この台本は評判が良くない。筋書きが無茶苦茶だと言うのである。では、これはダメな台本か。モーツァルトは良いと考えたから作曲した。彼は「抱きたい」を音楽化したいと考え、素晴らしい形で実現した。パミーナとパパゲーノの二重唱「男と⼥、⼥と男は神に至る」という至純の愛(第1幕、第7番)、タミーノとパミーナの二重唱「私たちは音の力によって・・」の試練の愛、そして、ご存知パパゲーノとパパゲーナの二重唱「パパパ・・」の生殖愛(2曲共第2幕フィナーレ)、以上3つの二重唱がその頂点である。皆さんはどれがお好みか。何れも「抱きたい」を同根に持つ愛の諸相を表現したもので、モーツァルトの人生哲学の総決算であり、天衣無縫の人でなければ書けなかった音楽である。余談だが、パミーナの名前は何故「タミーナ」ではなく「パミーナ」なのか。彼⼥こそ、タミーノの理想世界とパパゲーノの現実世界を繋ぐ存在だからであり、彼⼥に於いて2つの世界は合一する。
さて、ザラストロが残っていたが、忘れていたわけではない。実は彼こそ最も「抱きたい」人なのである。この男は機会があればパミーナの肩に手を置くなどして、本当は彼⼥が大好きなのである。夜の⼥王から奪ってきたのもそのためで、彼⼥を抱きたくて、抱きたくて、たまらないのである。だが、宗教者という手前そう言えないのだ。もっと早い段階で「後宮」の太守のように強く迫り、拒否されたら強引に力ずくで抱いてしまうか、はっきりと「諦める」と男らしく宣言すればよかったのだ。グズグズしているからタミーノなどという⻘二才に横取りされるハメになるのである。悔しかったであろう、⻭ぎしりしたであろう。建前を外せないと人生こういうことになるのである。所で、劇の最後だが、彼は若い 2人に指導者の座を譲り、自身は引退を示唆するような演出も多い。世代交代ということか。しかし、何を慌てて、未熟な若者達に譲らなければならないのか。これでは、国会議員になったばかりの若輩を、直ぐに首相にするようなものではないか。彼自身は指導者の座を譲り一体どこに行こうというのか。役目を果たして神殿を去るのか、それとも残るのか。残ってパミーナの目付役にでもなって、愛しい彼⼥の、脱ぎ捨てた衣服の香りでも嗅ごうというのか。そんな事なら、いっそ、夜の⼥王と和解し抱いてあげてはどうか、世界の恒久平和のために。
モーツァルト自身はこの台本を重視しており、観客に台詞と歌詞をじっくりと聞いてもらいたがった。義⺟のウェーバー夫人を観劇に招いた際にも台本を持参するようお願いしている。だから台詞というか内容を相当重視していたことは事実である。とすると、やはりこれは生殖オペラなどではなく、深遠な思想を持つフリーメーソン・オペラということなのか。だが、そう決めつける必要もあるまい。人生も歴史もそれをどう見るかは解釈次第だ。そして解釈は様々である。性欲だって人生の深いテーマではあるまいか。オペラの主題も 1つに固定して考える必要もないだろう。優れた芸術作品ほど作者とは別の多様な解釈を許すものである。自由で柔軟な思考の遊びをモーツァルトも怒りはすまい。固定した観念ほど彼の音楽から遠いものはないからである。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2017年3月会報に掲載)