パミーナとは、勿論、「魔笛」の女主人公の、あのパミーナのことである。先月、「魔笛」について書いた折、彼女については余り触れなかったので、今回、若干補足したい。彼女の物語を概略すると、第1幕で、モノスタトスの手から逃れようとするが、捕らえられ引き戻される。そこをパパゲーノに救われ王子タミーノのことを知らされる。改めてパパゲーノと逃亡するが、帰還したザラストロと遭遇してしまい、毅然とした態度で逃亡の真実を述べる。そしてその場でタミーノに引き合わされ恋に落ちる。第2幕では、試練中のタミーノの冷たい態度、ザラストロ殺害を迫る母親の命令、更にモノスタトスの求愛脅迫を受け、苦悩する。遂には錯乱し死を決意するが、3人の童子の説得で思い止まり、タミーノと共に試練を受ける。魔法の笛に護られてこれに打勝ち、タミーノと結ばれ、聖堂に迎え入れられる、というものである。これらを通じて、彼女が優しく聡明で、勇気と正義心を持った女性であることが示されるが、もっと大切なことは、ここには、純情可憐な乙女が、母と引き裂かれて幽閉され、幾多の辛い経験に傷つきながらも、これを乗り越え、前向きで強い精神を獲得するに至る「心のドラマ」が描かれていることである。その意味で本オペラは、タミーノ=男の成長物語以上に、1人の乙女が成熟した女性へと精神的に高められていく、「女の成長物語」なのである。
この成長物語という観点からモーツァルト・オペラに於ける登場人物を見ると、例えば、「フィガロ」のスザンナと伯爵夫人の関係がある。スザンナは明るく聡明で良く気が付き、テキパキと事を進める魅力的な女性である。劇の推進役であり、全ての重唱及びフィナーレに参加する形で音楽的進行の全体に絡む。「フィガロ」上演の成否はスザンナ歌手の出来次第と言われる所以である。だが、人間的成長という点から見ると、彼女は、苦労はするが、最初から最後まで常に同じスザンナである。第4幕のアリアで、憧れに満ちた女らしい新たな側面を見せるが、これは彼女が本来持っていた性格の一部であり、劇中で新たに獲得したものではない。そこに彼女の成長があったとは言えないのである。これに対して伯爵夫人は、第2幕冒頭の登場アリアでは自分の人生を嘆くばかりの存在であったのが、フィガロの計画が失敗したと見るや、苦悩しながらも、自ら新たな計画を案出し、指示し、実行し、遂に最後のフィナーレで夫の非を皆の前で明らかする。そして、「赦す」という決断を皆の前で夫に告げる。それは彼女の自己確立の宣言でもあり、1人の成熟した人間への成長の証でもある。彼女こそ心のドラマの主役であり、そういう観点で他のオペラを見ると、同種の女性登場人物が目に付く。「恋の花作り」のヴィオランテ、「イドメネオ」のイリア、「後宮」のコンスタンツェ、「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラ、「コジ」のフィオルディリージ、「ティト」のヴィテリアなどであり、何れも劇中の辛い経験を通じて精神的成長を遂げる。これは他に類例を見ない、モーツァルト・オペラの特徴である。✽モーツァルト・オペラの「成長する女性」については、礒山雅「モーツァルト=二つの顔(「モーツァルト」に再掲)」に詳しい。
このような女性登場人物の立派さを考える度に、反射的に脳裏に浮かぶのが、甲斐ないテノール3人組、「後宮」のベルモンテ、「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッターヴィオ、「魔笛」のタミーノである。この3人は、立派なのは口先だけで、自らは行動せず、嫌なこと、困難な事は全て他人任せであり、従って成長もしない。この中で、しかし、オッターヴィオには、そうであるべき立派な理由がある。彼は、ドラマ構成上、ジョヴァンニの男性的・行動的な性格を浮かび上がらせるための影なのである。2つのアリアで、女性的且つ場違いに悠長な歌を朗々と歌うが、これはわざとそう作曲されているのであって、これによって、対照的に、ジョヴァンニの男性的且つ行動的な性格が浮かび上がる。この2つの大アリアは、しかし、美しいという点では比類なく、最大級の拍手を受けるため、損な役回りながら歌手は嫌がらない。モーツァルトの巧みなところである。一方、ジョヴァンニはその場に即した変則的なアリアしか歌わない。彼は行動の人であり、大アリアで滔滔とおしゃべり-それはレポレロの役割だ-などしている暇はないのである。鮮やかな対照ではないか。ドンナ・アンナはオッターヴィオに愛想を尽かしたであろうか。彼女の態度は曖昧である。ジョヴァンニによって惹起された強烈な性の衝動を抑えて、オッターヴィオとの平穏な結婚生活に入れるか、彼女自身も未だ決断は出来ていない。次にベルモンデであるが、先日見た「後宮」の演出では、コンスタンツェに愛想を尽かされていた。終幕で彼女が太守の元に残ると言い出すのである。さもありなん。太守とベルモンテでは、どちらが立派か明白であろう。では、タミーノは?彼は何の資格があってパミーナを得て幸せになるのだろう。女のスカートにすがって受けた試練など何の意味があるか。このモラトリアム人間はもう少し苦労する必要がある、人間、何時までも「お坊ちゃん」ではいられないのだから。
話をパミーナに戻すと、月の光の下で眠るパミーナをモノスタトスが見付けて、アリアを歌う場面(第2幕10場)は印象的である。月光に照らされて横たわる白い肢体に迫る黒い姿、確かに衝撃的ではある。このアリアは、「弱音で歌われ演奏される。遠くから、幻想のように感じられるように・・」という指示が楽譜にあるそうである。これは何を意味するか。この場面は実は現実ではなく、「モノスタトスに抱かれたい」というパミーナの幻想を表しているのだ、という解釈もあるらしい。確かに、高潔な人格を持った美女だからと言って、どんな欲望を心の底に隠し持っているか知れたものではない。モノスタトスも本来の悪人ではなく、悪人に仕立て上げられているのだ。仕立て上げたのはザラストラである。彼が悪人だからと言って、醜いからと言って、そういうものに引かれる心性が人間にないわけではない。だが、彼女の幻想などと、そんな事が本当にあるのだろうか。多分、ないであろう。モーツァルトが描く彼女の喜びと悲しみは真正なものだ。幻想など、それを幻想する者の幻想であろう。彼女はまた、劇中、辛い経験が多く、虐められる=被虐というイメージが強い。被虐を悦ぶ人としてのパミーナ。これもまた、好き者の勝手な幻想であろう。
パミーナはパパゲーノと仲が良い。非常に親密と言ってもよい。だが、2人が結ばれることはない。親密ではあるが、恋人同士ではないからである。それには2人の人間的レベルが違いすぎる。それは2人とも良く分かっていることだ。やはり、パパゲーノにはパパゲーナがお似合だ。その2人が一緒に愛の歌を歌う(「男と女、女と男は神にまで至る」(2重唱:第1幕8番)。これは不思議な光景である。何故、恋人同士でもない2人が、初対面のしかも逃亡の場で、愛の歌を歌うのか。ここで歌われるのは恋人同士の愛ではないのであって、もっと普遍的な愛、普遍的な、男と女の愛である。恋人同士の歌では単なる2人だけの愛に終わるであろう。この歌は、恋人同士ではない、あの2人によって歌われてこそ、普遍的価値が生ずるのであり、歌われなければならなかった。だからモーツァルトは、彼らが劇中で唯一、2人だけになるあの場面を借りて、この歌をそっと入れたのである。それが彼の遺言となった。パミーナは、夫婦という形でタミーノと結びつき、この2重唱でパパゲーノと結びつく。彼女はタミーノの世界とパパゲーノの世界を結ぶ要の存在なのであって、これを象徴的に表しているのがその名前である。タミーノの伴侶であれば「タミーナ」となるのが普通であろう。パミーナの「パ」はパパゲーノの「パ」なのである。彼女が体現する2つの世界の融合こそモーツァルトの理想であり、その象徴としてのパミーナはモーツァルト最晩年の理想の女性となった。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2017年4月会報に掲載)