世にモーツァルト狂という一群の人達がおり、これを病気と言うべきかどうかは分からぬが、私自身も病膏肓に入ったようで、今やモーツァルトの音楽が好きなのか、モーツァルトという人が好きなのか、判然としない状態である。こうなると最早、好きも極まって偏愛ということになり、シリーズ名も「偏愛的 私のモーツァルト」にでも変えようと思ったが、考えてみれば「私の」ということ自体、既に「偏愛的」ということであり、従来どおり「私のモーツァルト」で通すことにした。偏愛、偏向、或いは偏見と言ってもよいが、元来、完全に公正中立なのは神だけであり、人間は皆、神ならぬ身として本質的に偏向する存在である。そしてそれが個性というものの所以であり、皆、夫々のWAYを持っている。これは音楽に限らず、歴史認識であれ、政治事件の見方であれ、全てに通じるのだが、それが人間社会と言うもので、それで良いのであろう。新聞週間の標語などにありそうな「厳正中立の客観的報道」などは存在しない。記事の内容も勿論だが、ある事件を報道するか否か、報道するとすればどの程度のスペースを割くか、ということ自体、1つの判断であり見方である。中立を何処かに探すとすれば、恐らく、無数の人間の自由で多様な意見を集め、そこで形成される意見の多面体の中心点近くになるであろうとは想像するが、それとて定かではない。そんなものは無いのかも知れない。勿論、本コラムにも偏向があるであろう。ご理解とご容赦を乞う次第である。
日本でモーツァルトが好まれていることは、本の出版点数、公演回数、発売CD数などから見て、また本協会が多数の会員を擁していることからも明らかであろう。では日本人は何故モーツァルトが好きなのか。その第一は、やはり夭逝した天才ということであろう。日本人は何故か夭逝の天才が好きである。誰も「モーツァルト60歳の肖像」などは見たくないであろう。夭逝した天才と言えば、音楽ではパーセル、ペルゴレージやシューベルト、画家ではラファエルロやパリで客死した佐伯祐三、詩人では古くは源実朝、近くは中原中也や宮沢賢治、実人生は短くはなかったが詩人としては夭逝したランボーなどを始めとして枚挙に暇がないが、皆人気がある。或いは26歳で自死した金子みすゞを加えても良い。短命の天才ということの中に、我々は、その若々しく、瑞々しい感性を愛でる気持ちと、その死を惜しむ気持とがない交ぜになって、彼らに対する愛惜の念を強くするのであろう。短い人生という短調の通奏低音が、「散る桜」に特別の感慨と愛着をもつ日本人の心の琴線に触れると言ってもよい。
第二は伝記的側面である。彼は、映画「アマデウス」などで喧伝された親しみのあるキャラクターの持主である。彼は、「モーツァルトさん」とか「モーさん」、或いは「ヴォルフガング」、時には「アマデーくん」などと親しみを込めて呼びたくなる雰囲気を持っているが、こう言う作曲家は他にはいない。バッハ、ベートーヴェンを「バッハくん」とか、「ベーさん」とか呼ぶ人はいないし、同じ夭逝の天才でもシューベルトを「シューさん」とは呼ばないであろう。「神に愛された」という意味の「アマデウス」という名前も良いのかもしれない。洗礼名はギリシャ語の「テオフィルス」であるが、彼自身はフランス語風の「アマデ」を好んだ。更に、伝説化された劇的なその生涯がある。幼少時と青年期のヨーロッパを股にかけた音楽修行の大旅行と華やかな御前演奏、旅先での母の死、就職の失敗、失恋、父との葛藤、大司教との喧嘩別れと故郷ザルツブルクとの決別、父の反対を押切っての結婚、ウィーン時代前半の成功と後半の不調、貧困の中で作曲した傑作群、晩年に於ける人生への諦観、未完のレクイエムなど、短くも激動の人生であり、正に一巻の小説である。勿論、中には伝説に過ぎないものもあり、学者はその誤りを正すのに躍起である。だが、伝説は時に事実以上に強い力を持つ。そこには大衆が望むものがあるからだ。事実とごっちゃになった伝説を下敷きに音楽を楽しむなどは、文学的な音楽の聴き方で邪道である、純粋に音楽のみを聴かねばならぬ、などと非難する向きもあろうが、良いではないか、それで音楽が一層感慨深く聴けるのであれば。
音楽的側面で言えば、先ず、その旋律美が挙げられるであろう。不思議に、夭逝した作曲家には旋律家が多い。だが、心に染み込む旋律という点ではモーツァルトが第一であろう。彼の旋律には心と耳が一体となって聴き入らねば分からぬ精妙な美しさがある。その音楽的粒子の細かさは他の追随を許さない。そして、その美は本質的に悲しみを内在する。紺碧の秋空の下で孤高を保つ富士の峰は美しくも、悲しくはないだろうか。彼は人生を楽しんだ人で、機会さえあればどんな娯楽も快楽をも逃さなかった。その旋律には喜悦に満ちたものも多い。それが悲しいとは! だが、美しいもの、明るく輝かしいものほど、実は悲しいのだ。この悲しさはロマン主義の悲嘆とは関係がない。むしろ、私達が日常感ずる、人生の儚さ、生きる悲しみ、といった東洋的な感慨に近い。彼の中にはそういう旋律が湧き出るが如く充満していた。その溢れ出る旋律たちをどう処理するか、そこに彼の苦労があった。
彼のソナタ形式には主題が多すぎるという批判がある。ハイドンやベートーヴェンが主題の数を絞り、或いは単一の主題で全曲の統一を図ったのとは反対に、彼の曲中の主題は多彩である。ベートーヴェンが対位法手法を駆使して主題を徹底的に分析し、使い尽くしたのに対して、モーツァルトの対位法は不徹底と言われる。それはその通りであって、彼にとっては溢れ出る旋律群をどう総合し、統一するか、換言すれば「多様性の統一」をどう実現するかが終生の課題であり、対位法もその目的に沿う範囲で活用した。バッハやベートーヴェンのように対位法を作品の中核に据え、それで思考するということは、彼に於いては少なかった。「分析のベートーヴェン」対「総合のモーツァルト」である。この「多様性の統一」を最も必要とするものがオペラであろう。劇は多様な事件から構成されるが全体の統一が必要だ。事実、彼が最も得意としたのがオペラであり、これに惹かれるファンは多い。「フィガロ」の痛快さ、「ドン・ジョヴァンニ」の官能性、「コジ」の美しさ、「魔笛」の不思議な世界は、人を理屈なしに酔わせる。天衣無縫と留保のない絶対的な美しさがそこにある。「パパパの二重唱」のような曲を書いた人はかつていなかったし、その後もいない。
多様性という点では、その音楽の二元性も人気の秘訣であろう。明と暗、喜びと悲しみ、アポロン的なものとディオニュソス的なもの、天国的なものとデモーニッシュなもの、この世にあるものは全てそこにある。人間を、この世を、知りたいと思えばモーツァルトを聴けば良い。最後に、彼の音楽には、今は遠い昔となったロココの華麗な響きと、滅び行くアンシャンレジームへの哀愁がある。豪壮な宮殿、華やかな宴会とシャンデリアの輝き、貴族の威厳と婦人達の衣服の衣擦れの音。彼の音楽に一貫する凛とした貴族的で理知的な精神、そして、ギャラントで艶やかな響きはそれらを体現する。フランス革命によって近代市民社会が成立し、民主主義による自由と平等が保証される良い時代にはなったが、そこでスッポリと抜け落ちたものを彼の音楽は掬い取る。ピアノ協奏曲第25番ハ長調K503。その冒頭の主題を聴く者は、そこに轟く、バロック・ロココの王宮を偲ばせる豪壮な響きと、それに答える管楽器の繊細にして哀愁の色調の中に、彼の音楽が体現する18世紀精神が鮮やかに蘇る様を、まざまざと見るであろう。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2017年9月会報に掲載)