1769年12月13日早朝、モーツァルト父子はイタリアに向けてザルツブルクを出立する。当時の音楽家にとって、音楽先進国、いや全ての芸術先進国イタリアは、いずれ一度は訪れなければならない場所であった。幼少時に敢行した⻄方への大旅行によって、その神童ぶりは全ヨーロッパに鳴り響いてはいたが、時の流れは速く、モーツァルトも既に13歳、何時までも神童というわけには いかない。それならば早いほうがよい。目的は先進の地での音楽修行、併せてオペラ作曲の委嘱を受け上演に成功すること、それによって経歴に箔をつけ、就職先を見つけることである。父レオポルトの頭にはつい先頃のウィーンでのオペラ・ブッファ「ラ・フィンタ・センプリーチェ(偽りの馬鹿娘)」K51演の失敗があった。皇帝ヨーゼフ2世のお声掛りの作曲にも拘らず、宮廷音楽関係者の見えざる反対によって上演を阻止され、皇帝もこれを覆せなかった。これは、要するに、我が子にイタリアでの実績がないからだ、ここは是が非でもイタリアで成功し、実力を認めさせなければならない。そう固く決意したであろう。斯くして、3度に亘るイタリア旅行の第一歩が踏み出されたのである。領主のシュラッテンバッハ大司教は600グルデン(約600万円)の資金援助と、箔を付けるためであろう、モーツァルトを無給ではあるが宮廷楽団のコンサートマスターに任命してくれた。帰国後は150グルデンの有給化の約束だが、これは他国で就職することへの牽制か。何れにしても今回は経費を極力抑えるため父との2人旅で、残された女性2人の不満は大きかったが、旅の好きなモーツァルトは上機嫌だった。「僕の心は本当に嬉しくて、とろけそうです」と、翌日の旅の第一信で⺟親に書いている。
3度のイタリア旅行であるが、核心はこの第1回目であり、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェネツィアと、イタリアの主要な都市はほぼ全部を回るという1年3ヶ月に亘る大旅行となった。モーツァルト父子はインスブルックからブレンナー峠を越えてイタリアに入る。このアルプスの中央からやや東に位置する峠は、ヨーロッパの北と南を隔てるアルプス山脈の峠の中で、海抜1,370mと一番低く且つ峠1つで越えられる利点から、古来、北の芸術家が修行のためにイタリアを訪問、逆に、イタリアの芸術家が職を求めて北に移動する際に最も良く利用した峠で、ゲーテも1786年、モーツァルトの17年後にここを通過している。因に、歴史上の2人の天才軍人、第2ポエニ戦役でのカルタゴの勇将ハンニバルと、フランス革命時のナポレオンが越えたのはもっと⻄側の峻険な峠で、前者はモン・スニ峠(諸説ある中の多数説)、後者はグラン・サン・ベルナール峠と、何れも海抜2,000mを越えている。アルプスの⻄に位置するフランス側からの侵入だったからである。それは兎も角、イタリアに入った父子は多くの貴族に招かれ、その邸や公開演奏会で妙技を披露、どこでも殆ど熱狂的に歓迎された。貴族や富裕市⺠間の情報交換や音楽通信の類を通じてその神童ぶりがイタリアでもよく知られていた事や、レオポルトが携えた多数の紹介状が威力を発揮したのである。
最初の目的地はミラノで、峠を越した後、カトリック公会議で名高いトレント、次いでヴェローナで年を越し、モンテヴェルディの出身地で知られるマントヴァ、弦楽器の製作で有名なクレモナを経て、1月23日に同地に到着している。途中、ヴェローナでは貴族達の招待攻めに合い、連日オペラを観劇、自身の大演奏会も開催し、肖像画も制作している。ミラノであるが、同市はイタリアの都市とは言えオーストリア帝国領で、領主もマリア・テレジアの第4皇子フェルディナント大公であった。地方総督フィルミアン伯爵は、ザルツブルク宮内大臣フランツ・フィルミアン伯爵の弟であり、モーツァルト父子に対して何かと便宜を図ってくれた。彼は邸内で、大公、その許婚者マリア・リッチャルダ・デステ大公女を始め、150人もの有力な貴族が列席する大演奏会を催し、モーツァルトに出演を要請した。彼は伯爵から贈られた「メタスタジオ全集」をテキストにアリアを3曲作曲・披露し、これが功を奏したのか、同年の謝肉祭シーズンに上演するオペラ・セリアの作曲委嘱を受けた。この地の権力者に早速気に入られたわけで、旅は上々のスタートとなった。このオペラ「ポントの王ミトリダーテ」K87の作曲・上演のため、父子はその年の秋に再度ミラノを訪問することになる。なお、「ミラノ・スカラ座」はこの時は未だ建造されておらず、落成は1778年である。
次のボローニャでは音楽の大理論家で、有名な作曲家でもあるマルティーニ神父を訪ね、対位法の基礎をきっちり学ぶ事が出来た。彼がここで学んだのはルネサンス以来のイタリア伝統の対位法であり、旋律と和声の統合を目指すバッハの対位法には、この後ウィーンで出会うことになる。マルティーニ師との関係はこの後も続くが、特筆すべきは、モーツァルトが同師の推挙で、14 歳にしてボローニャの「アカデミカ・フィルハーモニカ」への入会を認められたことである。この称号は規則では20歳以上が要件とされていたが、同師の推挙と対位法の実技試験の結果、特例として認められたものである。続く、フィレンツェではトスカー ナ大公レオポルド 1世に謁見を賜った。大公はマリア・テレジアの第3皇子で、後にヨーゼフ 2世を継いで神聖ローマ皇帝レオポルト2世となる人で、モーツァルトは1791年、この皇帝のためにオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」K621を作曲することになる。その宮内大臣ローゼンブルク伯爵も後にウィーン宮廷の演劇⻑官となり、やがてモーツァルトとも深い係わりを持つ。
ローマは敬虔なカトリック信者であったレオポルトにとって特別の地であったが、訪問目的の1つは、システィーナ礼拝堂で歌われるアレグリの秘曲「ミゼレーレ」を聴くことであった。この曲は演奏時間約14分、9声の2重合唱で、この礼拝堂でだけ歌われ、その楽譜の持出しや写譜も厳禁で、これを破れば破門とされていたが、モーツァルトはこれを一度聴いただけで楽譜に写し取ったと言われる。この話にはレオポルト一流の誇張もあるようだが、モーツァルトは、その能力に驚嘆したローマ教皇クレメンス14世から「⻩金の軍騎士勲章」を授与される。これは大変な名誉で、音楽家ではフランドル楽派最後の巨匠オルランド・ディ・ラッソ以来2人目であった。彼は教皇の謁見を賜るが、その際の介添役が当時のグルク司教で次期ザルツブルク大司教となる、ご存知、モーツァルトの敵役コロレド伯爵であったことは、運命の悪戯(いたずら)か・・・。父子はこの後ナポリにまで足を伸ばす。ナポリは当時全盛を誇ったイタリア・オペラの本拠地であった。だが不思議なことに、彼らはここではオペラの観劇は余りせず、むしろ観光に精を出している様子で、ポンペイの遺跡などを訪れている。全盛を誇ったナポリ派オペラにも落日の兆しが見えていたのであろうか、モーツァルトもヨメッリのオペラを見て「綺麗ですが、時代遅れです」と感想を述べている。帰路はローマからアドリア海沿岸のロレート、ペーザロを経由してミラノに戻り、「ミトリダーテ」を作曲。この上演が大成功だったため、翌年の大公の 結婚祝賀用の「祝典劇」と、2年後の謝肉祭用「オペラ・セリア」と、2つの新たな作曲委嘱を受け、またパドヴァからも別に「オラトリオ」の作曲委嘱があり、これらが2、3回目の旅行に繋がるわけである。最後に彼らはヴェネツィアに寄り、音楽会、オペラ見学、宴会、仮面舞踏会などを楽しんだ後、1771年3月28日にザルツブルクに帰還する。(次回に続く)
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2018年3月会報に掲載)