33.イタリアのモーツァルト(2)

 

 1771328日に1回目のイタリア旅行から帰郷したモーツァルト父子は、同年813日、再びイタリアに向けて出立する。目的地はミラノで、1015日に挙行されるフェルディナント大公とマリア・デステ大公女の婚礼のための祝典劇「アルバのアスカーニョ」の作曲と上演のためである。この祝典にはハッセのオペラ・セリア「ルッジェーロ」の上演も予定されており、実はこれがメインの出し物で、モーツァルトの祝典劇は謂わば前座であった。父子は821日にミラノに到着するが、台本の到着が遅れ、時間のない中でモーツァルトは大変な苦労をする。だが、この祝典劇は大成功であった。これに対して、先に上演されたハッセのオペラは不評だった。レオポルトは大喜びで早速故郷に「息子の作品はびっくりするほど人気があり、ハッセのオペラを完全に打ち負かしてしまった」と報告している。前座が真打を圧倒したのである。だが、実は、これがまずかった。出し物は2つ共、神聖ローマ帝国のマリア・テレジア女帝(正確には「皇太后」)からの委嘱だったが、祝典劇が大公の推薦を受けたものだったのに対し、オペラ・セリアは女帝直々のものだった。女帝は自分の嘗ての音楽教師ハッセを大変に尊敬しており、息子の結婚を盛大に盛上げるため、ここは大ハッセ先生の登場以外にないと考えたのである。ハッセは当時既に半分引退しており、そのオペラが時代遅れであることを自覚していたが、女王の要請は断れなかった。結果は、直々に依頼した女帝の面子を「丸つぶし」にするものとなった。

一方、大公はモーツァルトを大いに気に入り、自分の宮廷に雇い入れたいと思った。だが、未だ若年だった彼は母親の承諾を求めた。それに対する女帝の返事は、「無用な人間を雇用したり、肩書きを与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響を及ぼします」というものであった。女帝は元来、自分の勤務先をないがしろにして各地を歩き回るモーツァルト父子を疎ましく思っていた。また、レオポルトの策士ぶりを見抜き、油断のならない人物、モーツァルトを雇えば黒幕として宮廷を牛耳るのではないかと警戒もしていた。先のウィーンでの、オペラ「ラ・フィンタ・センプリーチェ」の上演を巡る騒動の際、レオポルトが皇帝ヨーゼフ2世に直訴した事にも心象を悪くしていた。その上、ここで面子まで潰された。それらが重なって上記の意見となったのであろう。大公も母親には従わざるを得なかった。モーツァルト父子は上演後も暫く同地に滞在するが、何の通知も貰えないまま125日にはミラノを立ち、帰郷する。その翌日、1つの事件が起きる。モーツァルト父子に寛大だったシュラッテンバッハ大司教が死去し、この後を、かの運命の人、コロレド伯爵が継ぐことになる。

17721024日、父子は3回目のイタリアに旅立つ。今回も目的地はミラノで、1回目のミラノ訪問時に委嘱を受けた謝肉祭用のオペラ・セリア「ルーチョ・シッラ」の作曲・上演のためである。114日にミラノに到着、台本も入手済みであったが、今回は出演歌手の到着が遅れた。例によって時間に追われる中でオペラは完成し、上演は大成功とレオポルトの手紙は伝えるが、実際は定かではない。女帝の意向を知らない父子は上演後も暫くミラノに滞在し、宮廷からの通知を待つ一方、以前謁見を賜ったフィレンツェのトスカーナ大公にも就職を打診するが、こちらも不調に終わる。この大公も女帝の息子であり、同じ手紙を受け取っていたに違いない。レオポルトは仮病を使ってまで滞在を引き伸ばし吉報を待つが、ついに諦め、「考えを決めました」という妻宛の手紙を最後に3月初旬にミラノを立ち、帰郷の途に着く。これが父子にとって最後のイタリア旅行となり、以後2度とイタリアの土を踏むことはなかった。ところで、話はこれで終わりではない。父子は4ヶ月後の1773714日、今度は3回目のウィーン旅行に出かける。マリア・テレジアへ謁見を賜るためであった。これこそ先の手紙の「考え」の中身であり、「息子たち相手では就職話も拉致があかない、ここは直接母親の許可を得よう」としたのである。以前、愛想良くもてなしてくれた女帝である、何とかなると考えたのではないか。結果は、「大いなる好意を示してくれましたが、それで全て」であった。当たり前である。女帝はあの手紙を出した本人である。彼女は16人の子供を産みながら宿敵プロシャと戦った歴戦の勇士で、冷徹な戦略家でもある。策士レオポルトもこの点では甘かった。だがこの謁見で、女帝の意思と事の真相を直ちに感得したのであろう、この後しばらくウィーンに滞在するが、他の有力貴族への接触は一切行っていない。斯くて、イタリア旅行の大きな目的の1つはあえなく潰え去ったのである。

イタリア旅行について、もう1つ言及しておくべきは、モーツァルトが、父の手紙の追伸という形ではあるが、手紙を書き始める事で、そこには後年全開する彼の個性の萌芽が現れていて興味深い。例えば、ちゃんぽん言葉とでも言うべきか、1つの文章を多言語(ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ザルツブルク方言など)を使って構成しているものがあり、これが文章として見事に纏まっている。言語に堪能なその才能を物語ると同時に、彼の音楽の核心とも言える「多様性とその統一」が既に見られるのである。手紙の内容は、各地で見たオペラ上演の批評と、人物評・人物描写が大多数を占めている。ある大食漢の坊さんに対しては、その贅沢な食事内容を詳述することによって、教会制度への批判を含みに、その人格表現にまで肉薄しており、人間観察の鋭さを示している。正に「劇作家モーツァルト」である。他方、自然や風景に関しては全くというほど記述がない。美しいイタリアの風景を見ての唯一の記述はヴェスヴィオ火山の描写で、「今日も噴煙を上げています」がその全文である。

さて、イタリア旅行の総決算であるが、就職には失敗したものの、得たものも大きかった。名誉の他、本場イタリアの器楽やオペラを多数見たこと、対位法を始め作曲技術を学んだこと、多くの有能な音楽家や歌手に出会ったこと、オペラ上演を通じて歌手の扱い方を学んだこと、各都市を回ってイタリアの雰囲気を感じ取ったこと、などである。実を言えば、彼は幼少の頃ロンドンで、大バッハの末子クリスチャン・バッハを通じてイタリア音楽には親しんでいた。ザルツブルクにもイタリア人音楽家は少なくなかった。だが、今回は、その精髄を身を以て体験したのである。1317歳という人生で最も多感な年代の人間にとって、まして彼の様に鋭敏な感性を持つ人にとって、その体験がどんな意味を持つかは言を待たないであろう。その直接の結果は、ディヴェルティメントK136138の連作やモテットK165、或いはこの頃盛んに作曲した交響曲群(K124130番台の諸作)に顕著である。そこには、何よりも抜けるような青空輝きがある。そう言う意味では、どんな個々の体験よりも、「南国の太陽と青い空、地中海の青い海」を見た事こそが最大の体験ではなかったか。彼は、これを自らのドイツ精神と摺合せ、融合し、じっくりと醸成させる。その中から彼の音楽に色気、と言って悪ければ何とも言えぬが出てくる。このこそは、他のどんな作曲家にもない彼独自のものであって、北のドイツ精神と南の地中海精神が渾然一体となり、その音楽の中核を形成する。ここに於いて「モーツァルトはモーツァルトになった」のである。その後、その音楽は、人生経験を深めることでその滋味を加え、更に晩年の1788年秋以降は透明度を増し、遂には“内なる光を発するという境地にまで到達する、例えば、モテットK165が「アヴェ・ヴェルム」K618にまで昇華するように。だが、それは未だ先の話である。 

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

20184月会報に掲載)