プラトンによると、その師ソクラテスは若い時から自分の頭の中で聴こえる不思議な声にしばしば襲われたそうである。この不思議な声はダイモーン(英語では「デーモン」)と呼ばれ、天上の神と地上の人間の中間に位置する一種の霊的存在で、思いがけない時と場所に現れ、人知の及ばない霊感を人間に及ぼすと言われる。モーツァルトもこのデーモンに取り憑かれた人である。彼の デーモンは、勿論、⻑調作品にも作用したが、短調に顕著である。彼は元来理知的な人間で、それはその古典的で理性的な音楽にも良く現れているが、その人間が時に鮮烈なパトス(感情)を顕にする。若い時の例では、交響曲25番ト短調、ピアノ・ソナタイ短調、ヴァイオリン・ソナタホ短調などがある。何れも意識的な作曲というよりデーモンに背中を押され、一気呵成に書き上げた様 な筆致を持っている。彼のデーモンは何時、どういう風に現れるのか、それは彼にも分からなかった。出現は何時も唐突で、時には⻑調の中に突然現れることもあった。ともあれ一度それが出現すれば、彼はそれをどうすることも出来なかったし、また、どうしようともしなかった。彼が努力したのは、その自然な発露を阻害せず、じっとその声に聴き入り、それに音楽上の最適のフォルム(形式)を与える事であった。
ベートーヴェンも短調を効果的に使ったが、彼の短調は、多くの場合、曲の最後には⻑調に転換することを前提としている。苦難を通じて勝利を表現する音楽だからである。究極の勝利を強調するため、冒頭の短調表現は強烈である。出だしが暗いほど、最後の勝利は明るく輝かしいものとなる(交響曲5番、9番)。モーツァルトは違う。最終楽章を短調のまま閉じる(交響曲25番、40番)。両者には短調のソナタ形式での調性の選択にも違いがある。提示部は同じだが(第1主題:短調/第2主題:⻑調)、再現部が異なる。ベートーヴェンが第2主題を通則通り⻑調で再現するのに対し、モーツァルトは短調で再現する(上記交響曲、イ短調ソナタなど)。 この結果、再現部全体が短調一色の暗い影に覆われる。彼は、短調作品の中で、人生の深淵を、人間の心の闇を見詰めた。明るく転じる気にはなれなかったのであろう。「苦悩を通して歓喜に至る」とか「人類は皆友達」とかの夢、と言って悪ければ、理想を簡単に信じる気にはなれなかった。そういう観念的思弁ほど彼から遠いものはない。彼の人間把握はもっと具体的で精妙だ。人の心の奥底に深く分け入り、そこに併存する真と偽、善と悪、美と醜、勇気と卑怯、愛と憎しみなど、正義でも不正義でもない多面体としての人間の本性を直視した。謂わば、仮借のない「人間観察人」であり、徹底したリアリストだった。⻑調に向かうベートーヴェンと短調に固執するモーツァルト、「フィデリオ」のベートーヴェンと「ドン・ジョヴァンニ」のモーツァルト、ロマンチストとリアリスト、目的の音楽と過程の音楽、人工の音楽と自然の音楽、説得の音楽と対話の音楽。両者の距離は思う以上に大きい。
モーツァルトは「人間観察人」と述べたが、実はこの「人間を見る目」こそが、彼のオペラを支えた。例えば、「コジ・ファン・ トゥッテ」。このオペラの登場人物達は、台本上は何の具体的性格をも持たない人形のような存在である。それにも拘らず、このオペラは人間劇となっている。人形の喜びや悲しみに聴衆は真実の声を聴く。何故か?音楽が人間を描いているからである。オペラの結末は、生き生きとした人間たちの織り成す人間劇の結果であって、先に結論があるわけではない。結論など、どうでも良いとさえ言える。彼が本当に描きたかったのは「心の動き」だ。ベートーヴェンは先に結論を設定する。登場人物達はそのための道具立てに過ぎない。彼の「フィデリオ」が貞節という美徳を描く「観念オペラ」に留まるのは、そこに人間が描かれていないからだ。 生き生きとした人間劇になっていないからだ。だが、観念的というその事が、逆に、彼の器楽作品の偉大さを物語っている。それは、このオペラの4曲の序曲を聴けば分かる。貞節という美徳はその中で完全に表現され尽くしている。そうであれば、それ以上オペラ本体で何を言うことがあろう。ベートーヴェンにはそれがよくわかったから以後オペラは書かなかった。彼の器楽の力とは、音楽の流れと結末がわかっていても、なおかつそれを聴かせ、納得させる力である。聴衆はそれに抗し得ない。それは聴衆を熱狂させる壮大な力である。だが、熱狂は何時か覚める。壮大は一歩間違えれば滑稽になる。熱狂と白け、壮大と滑稽は紙一重である。
さて、話を短調に戻す。モーツァルトの短調と言えば小林秀雄の「疾走するかなしさ」と「涙は追いつけない」が有名である。これは弦楽五重奏曲ト短調の第1楽章について述べたものだが、彼が引用したアンリ・ゲオンの「モーツァルトとの散歩」で原文が言及しているのは、実はフルート四重奏曲ニ⻑調の第1楽章である。但し、ゲオンは、この曲を上述の五重奏曲の前触れとして捉えているので、趣旨としては間違いではない。ゲオンはこの楽章を「tristesse allante」と表現した。「tristesse」は「悲しさ」だが、問題は「allante」である。この語は「軽快」、「快活」などと訳されるので、素直に取れば「快活な悲しさ」となり「快活さ」と「悲しさ」という二律背反を同時に含むモーツァルトの音楽の特異性を述べたものと解釈される。小林氏はこれを「疾走するかなしさ」と訳した。涙が「追いつけない」ためには「かなしさ」は疾走しなければならないからである。しかし、「軽快/快活」は「素早い動き」というニュアンスは持つが、「疾走」ではない。このため小林氏はあえて意識的に誤訳、と言って悪ければ、意訳をしたのではないか。一方、この言葉は、イタリア語では「Andare→Andante(歩くような)」、英語では「Going(進んでいる)」と訳されることから、「動く(滞留しない)悲しさ」と取ることも可能である。現にゲオン自身、五重奏曲の箇所では、「(歌は)迅速に進み、走り、駆け巡り・・・」と正に「疾走」させている。そうだとすれば小林氏の解釈は正鵠を得ており、正に天才的な訳という事になる。この名著は短調や器楽への偏重が批判され、既に克服されたなどと言われるが、本当にそうだろうか。モーツァルトの或る一面を、これほど深くえぐった批評は過去にはなかったし、現在もない。残念なのは、これが、氏独特の表現法に基づく日本語でしか表現出来ないモーツァルト像であり、外国語への翻訳が困難な事である。最後に一言、彼の短調に「快活な悲しさ」があるならば、⻑調には「悲しい快活さ」があるとは言えないか。両者は混然一体となって人生の実相を表す。
モーツァルトの音楽には、しばしば、デーモンの暗い面、人間心理の不気味な深淵を感じさせる時がある。デモーニッシュなモーツァルトである。デモーニッシュとは、古代ギリシャのデーモンが、中世に悪魔と結び付けられたもので「悪魔的」と訳される。この種の曲には、ピアノ協奏曲20番、「ドン・ジョヴァンニ」などニ短調が多い。この悪魔的な響きは彼に特有で、他の作曲家、例えばベートーヴェンにはこのような響きはない。ベートーヴェンにはベートーヴェンのデーモンがあったが、彼のデーモンはモーツァルトに⽐べて遥かに健全で、後期作品以外、病的なものはない。強大な音楽ではあるが音そのものは至極健康的である。一方、モーツァルトの音楽には人の心に絡みつくような所がある。1788年夏以降の最後の4年間、彼は思想を純化し、作品は透明度を深めた。遂に彼はデモーニッシュなものから解放されたのであろうか。死に臨んで彼は「レクイエム」を書く。またしてもニ短調だ。この“自分のため”の「レクイエム」は、しかし、果たして自分を救う事が出来たのか。その回答を未完のまま、彼は旅立った。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2018年6月会報に掲載)