39.私の好きなモーツァルトの言葉(1)

 

 モーツァルトの生涯は18世紀の作曲家としてはかなり詳細に判明している。それは、彼の手紙がかなり纏って残っているからである。18世紀は書簡の世紀とも言われ、皆、手紙をせっせと書いた。書簡小説などと言うものもあった。彼も随分多くの手紙を残している。彼の手紙は394通(父母の手紙中の追伸/寄せ書を含む)が保存されており、父親やその他の関係者の手紙も含めると、白水社の書簡全集には753通が所載されている。非常に多くの手紙が書かれ、保存されたのは、父のレオポルトが記録魔であったと同時に、モーツァルトの伝記を書く計画を持っていたからである。また、シュリヒテグロルやニーメチェクによる初期の伝記、ロホリッツによる逸話集、マイケル・ケリーや妻コンスタンツェの回想などにも彼の言行が多く残されている。ここでは、手紙や伝記作者たちの残した彼の言葉の中から、私の好きなものを幾つか拾ってみた。拾い方は順不同である。

1.「凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと、常に凡庸なままです。しかし、優れた才能の人は、いつも同じ場所にいるとだめになります」(1778911日、パリから父宛書簡)

モーツァルトの人生と音楽は旅と切り離せない。彼は旅の人であり、その精神と音楽は旅によって育まれた。6歳から35歳に亘る生涯の旅の数は17回、延べ期間は102か月と8日間(3,720日)。これは彼の人生3510か月と9日間(13,096日)の28%強で、人生の1/41/3を旅に費やしたことになる。地域も、東はスロヴァキア、西はロンドン、南はナポリ、北はベルリンと、全欧州に及んだ。彼は各地の音楽に接し、その良質の部分を聴き分け、模倣する。模倣の大家になるのである。「ご存じの通り、僕はどんな様式の作曲でも上手く取り入れたり、模倣したり出来ます」(177827日、マンハイムから父宛書簡)。模倣の大家だと?独創こそ芸術家の本分ではないか?だが、模倣しないで、どうして模倣出来ないものが作れよう。徹底して模倣した後、どうしても模倣できないものが出てくる。それが個性というものだ。人は模倣を通じて自分の個性を知り、それが独創を生む。だが、ここで真に驚くべきは、彼が、当時の殆どあらゆる様式・技法を模倣し取り入れ、しかも自己を見失わなかったことだ。この自己保持力と、全てを包含する総合力こそは、彼に備わった天賦の才能であろう。こうして彼は、18世紀後半の音楽を総括する。ただ、人にはタイプがあって、旅行を要しない人もいる。バロック音楽の総合者バッハは生涯を北ドイツで、新時代を切り開いたベートーヴェンはボンとウィーンで過ごした。彼らは自らが移動する必要を感じなかった。必要なものは収集すれば足りたのだ。この2人の音楽が、モーツァルトの多様性に対して、自己の内面に向かう強い求心性を感じさせるのは特徴的である。

2.「僕の心を引き付けてやまない、あの美しい、赤い外套の件ですが、どうかお願いですから、あれがどこで手に入るか、値段はいくらか、教えてください。・・・・僕は良質で、本物で、美しいものはなんでも欲しいのです!」(1782928日、ウィーンにてヴァルトシュテッテン男爵夫人宛書簡)

178284日、モーツァルトはコンスタンツェと結婚する。この時、彼女の母親と生じたトラブルを仲介し、上手に取り成してくれたのがヴァルトシュッテン男爵夫人で、彼女は、謂わば、彼のウィーン時代前期に於けるパトロン的存在であった。彼は結婚直後の頃、この夫人宅をしばしば訪問していたが、或る日、赤い、美しい外套を披露され、堪らなく欲しくなった。そこで書かれたのが上記の手紙である。彼は値段を問合せているが、実は自分で買うつもりはなく、これは彼女に対するおねだりに他ならない。結果は、102日の彼女宛の手紙が告げている。「あの美しい外套ですが、奥様が私に一着約束して下さった事へのお礼を、先日ご訪問した折に申し上げるのをすっかり忘れておりました」。要するに買ってもらったのである。そのお礼に、彼は、「ピアノと管弦楽のためのロンドK382」を夫人に贈呈している。また、彼女のために、ザルツブルクの牛タンの燻製を父親に送ってもらっている。ところで、赤い外套は当時、楽長が着る習慣のものであった。そのを好む所に、彼の見栄坊で派手好きな性格と、自己の音楽への強い自負が良く表れている。それにしても「良質で、本物で、美しいものが好き」とは如何にも彼らしい言葉である。彼の音楽、或いは芸術と言ってもよいが、そのものではないか。この赤い服とはどんな服だったのだろうか。彼が赤い服を着た有名な肖像画があるが、あれはバルバラ・クラフトという画家が、クローチェ作の「家族の肖像画」(178081年、ザルツブルクで制作)を基に1819年に描いたもので、あそこで着ているのは、残念ながら、この服ではない。

3.「僕の音楽が簡単にこの頭に浮かんでくると思うなら、それは誤解だ。実際、僕ほど熱心に作曲を勉強した者はいない。有名な大家で、僕がその作品を懸命に、しばしば何度も研究しなかった人は殆どいない」(ニーメチェク「モーツァルトの生涯」、1808年)

ニーメチェクはプラハの音楽愛好家でモーツァルト崇拝者、後のプラハ大学文学部教授である。モーツァルトが1791年、「ティート」上演のためプラハを訪問した際に知り合い、その経験とコンスタンツェからの資料を基に伝記を書いた。上記の言葉は1787年「ドン・ジョヴァンニ」上演の際、プラハの音楽監督兼楽長に語ったものである。確かにモーツァルトはよく勉強した。幼い頃の父親を始め、J.C.バッハ、マンハイム楽派、イタリア音楽、ハイドンと、勉強に次ぐ勉強であった。「ハイドン四重奏曲」出版の際の「長い労苦の結果」という言葉も、その通りであろう。バッハ対位法の研究にも励み、その努力の表れが178283年に作曲された一群のフーガだが、多くは断片に終わった。彼にとってもその克服は容易ではなかったのである。だが、それらはやがて「ジュピター交響曲」、「魔笛」、「レクイエム」などに、独自の対位法として結実する。天才ほど勉強すると言われるが、何故、天才は勉強するのか。畢竟、「天才は、常人には当然と見える所に疑問を見る」という事であろう。スポーツでも、囲碁・将棋でも、何でも同じである。勉強するから強くなり、上手くなるのではない。逆である。強いから、上手いから勉強する、否、勉強出来るのだ。己の課題が見えるからである。それが才能と言うものだ。彼には自己の音楽上の課題がよく見えた、見え過ぎた。それらを解決して行く事が即ち生きるという事であり、勉強を勉強とは思わなかったであろう。音楽家としても、人間としても、彼は生涯成長し続けた。それは、K1「メヌエット」からK626「レクイエム」までの、長い、遥かな道程であった。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

201812月会報に掲載)