1.「オペラでは、詩は、絶対に音楽の従順な娘でなくてはいけません」(1781年10月13日、ウィーンから父宛書簡)
「音楽は、どんなに恐ろしい場面であっても、決して耳障りであってはならず、聞き手に快感を与えるものでなくてはいけない、
つまり、音楽であり続けなくてはならないのです」(1781年9月26日、ウィーンから父宛書簡)
上記の言葉は何れも、ウィーン移住後、オペラ「後宮からの誘拐」を作曲中に父親に語ったもので、彼の音楽観がよく表われている。オペラは16世紀末の創始以来、「節(音楽)を付けて詩(言葉)を語る」という基本形態からして、詩と音楽の葛藤を内包していた。とは言え、オペラは演劇ではなく、音楽劇(音楽による劇)、即ち、音楽である。誰だろうと、オペラ劇場に行く第一の目的は音楽であって、言葉ではない。その意味で「詩は音楽の従順な娘」は当然とも言えるのだが、だからと言って、彼が詩を軽んじたという訳ではない。詩は不可欠だ、だがそれは、自然で無理がなく、音楽のために書かれたものでなければならない。そういう詩と結合してこそ、音楽は十全にその能力を発揮する事が出来る。音楽は情景や心理の具体的な描写は出来ない。だが、だからこそ、音楽にしか表現できないものがある。音楽は、言葉を超えた世界を我々に示してくれるのだ。彼が「フィガロの結婚」に於いて、ダ・ポンテという優秀な台本作者を得る事が出来たのは、音楽史上の幸運であった。自然で音楽のために書かれた詩の上で、音楽は自由にその想像の翼を広げ、人間の真実を表現することが出来た。殊に終幕の「赦しの場面」は人間の本質に関する1つの啓示であり、これを言葉でどう表現することが出来ようか。オペラに於いては作曲家が劇作家なのである。
下段の言葉は、「後宮」第3幕のオスミンの“怒りのアリア”について述べたものである。どの様な場合でも、音楽は我を忘れてはならない。怒りは、あくまで“音楽としての怒り”でなくてはならない。これは彼が終生持ち続けた、音楽家としての矜持であった。エレットラの絶望のアリアも、伯爵の怒りのアリアも、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちも、夜の女王の憤怒のアリアも、皆、恐ろしくも、美しい。音楽であり続けているからである。彼の音楽は、「音楽」とは何かということを教えてくれる。
2.「僕は、良く仕上がった服のように、アリアが歌い手にピッタリと合うのが好きです」
(1778年2月28日、マンハイムから父宛書簡)
「三重唱や四重唱については、作曲家の自由意思に任せてもらわなければなりません」
(1780年12月27日、ミュンヘンから父宛書簡)
今度は、歌手との関係である。2つの言葉は別々の時期に発せられたものであるが、併せて読むとオペラに於ける作曲家と歌手の関係についての彼の考え方が分かる。アリアでは歌手を尊重するが、重唱は作曲家に任せてもらう。歌手を優先すると言うと、何か作曲家の自由な創造性を阻害するかのように捉え勝ちだが、そうではない。歌手の特徴を劇中で見事に生かすこと、そういう制約が逆に彼の創造力を鼓舞したのである。コロラテューラは歌えなかったが素晴らしい性格歌手だったナンシー・ストレース嬢のための「スザンナ」、高音のコロラテューラが得意だった義姉のホーファー夫人のための「夜の女王」、低音が得意だったバス歌手のフィッシャーのための「オスミン」。歌手の特徴を逆手に取ってそれを登場人物の特徴として普遍化し、劇構成上の不可欠な要素と成す。これこそ本当の才能であろう。一方、重唱では、彼は譲らなかった。ダ・ポンテ三部作の合計6つのアンサンブル・フィナーレこそは、その最高の例である。
3.「元気かい? 僕が君の事を思い出すと同じぐらい、僕の事を思い出してくれていますか? 僕は何時も君の肖像画を見詰め
ている。そして半分は嬉しくて、半分は悲しくて泣いている。君の健康は、僕にとってもとても大事なのだから、気をつけてね。
御機嫌よう、僕の愛しい人!・・さようなら。何百万回も、やさしく、やさしくキスしてあげる。僕は何時も君のものだ。死ぬまで
忠実なモーツァルト」(1789年4月8日、ブトヴィッツから妻コンスタンツェ宛書簡)
これはモーツァルトの晩年、ベルリン旅行の旅先からの手紙である。当時彼の財政状況は非常に悪化していた。ウィーンで音楽会が開けず、収入が激減していたのである。これは、ヨーゼフ2世の対ロシア戦争の影響で、彼の人気が凋落したからという訳ではない。音楽家は皆困っていたのだ。コンスタンツェの脚の病気の療養にも費用が掛かった。旅行は、プロイセンのヴィルヘルム2世への謁見が目的と言われるが、併せて、北ドイツで演奏会を開き、収入を得ようとしたのであろう。それは兎も角、これは、妻コンスタンツェへ寄せる彼の愛情が本当によく出ている手紙である。彼は、2か月間の旅行中、このような手紙を12通書いている。書中には、愛情の余り「お尻をぺんぺんする」などと言う表現もある。旅先からも、愛しい妻に愛を告白せずにはいられなかった。病気も心配でならなかった。・・・優しいモーツァルト! ・・・以上がこの手紙の第1の読み方で、次は第2の読み方である。
この旅行はプラハを経由してのものであったが、そこには若い時からの親友ドゥーシェク夫人が在住していた。だが、彼女はこの時 “たまたま” 自宅のあるプラハには居らず、ドレスデンに旅行中で、2人は、そのドレスデン及びライプツィヒで落ち合い、一緒に演奏会に出演している。若い頃ザルツブルクで出会って以来、この2人は妙に気が合う所があり、彼は、1787年、プラハでの「ドン・ジョヴァンニ」初演の際も彼女の別荘に滞在している。そこで、仮に、この旅行が逢引を兼ねたものであったとしたら?・・・ 男は、心にやましさがある時、妻には優しく接するものである。自分を残して旅に出た夫が馴染みの女友達と家の外で会っているのである。コンスタンツェは2人の仲を疑ったであろう。モーツァルトの手紙によれば、彼女からの返信は本数も少なく(6通)、内容も素っ気なかった。この時のモーツァルトの手紙は残されているが、彼女からの返信は一通も残されていない。現在に伝わるモーツァルト関係の手紙は、全て彼女の検閲を経ており、夫の神聖化と自分に都合の悪い書簡は破棄されたと言われる。それらの手紙には彼女の疑惑と恨みつらみが表明されていたのであろうか。実は彼からの手紙も12通中4通が失われている。彼の釈明が書かれていたであろうか。勿論、残された手紙からは、そのような疑惑の痕跡は何も伺えないが・・・。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2019年2月会報に掲載)