48.「ドン・ジョヴァンニ」とは何者か

 

「ドン・ファン」物語はスペインに古くから伝わる伝説で、女性を次々に誘惑する男がその放蕩の報いとして罰を受け、地獄に落とされるという話である。この伝説を最初に物語としてまとめたのが、ガブリエル・テレスという修道僧で、1630年、ティルソ・デ・モリナというペンネームで「セヴィリアの色事師」という教訓劇に仕立てた。これは、主人公は最後に悔悟を示すが、礼拝堂で地獄に落とされるという、キリスト教的な勧善懲悪の物語となっている。この話は評判となってフランスに渡り、1665年、モリエールによって「ドン・ジュアン」が書かれる。スペインの伝説が土着的、生命的、宗教的であるのに対して、モリエールの戯曲はフランスの伝統に従い分析的、理知的、社会道徳的である。一方、この物語はイタリアにも渡り、コメディア・デラルテの即興劇として喜劇化され、これを基にゴルドーニが1736年に戯曲「ドン・ファン」を書き、更に1787年には、ベルターティ台本/ガッツァニーガ作曲によって「石像の客」としてオペラ化され、同年2月にヴェネツィアで上演される。この上演は評判となり、モーツァルトの「ドン・ ジョヴァンニ」への引き金となった。ダ・ポンテの台本もその素材をかなり活用しており(第1幕前半と第2幕フィナーレ)、作劇上も、スペイン・イタリア系の生命的、情熱的性格を継承している。 

 

モーツァルトのオペラで、ジョヴァンニは3つの独唱を歌うが、何れも短い変則的なもので、大アリアは歌わない。これは彼が行動の人で、思弁の人ではない事を示している。彼の思想を端的に表現しているのが、第111番の所謂「シャンパンアリア」と、もう1つ、アリアではないが第2幕フィナーレでエルヴィーラを相手に歌う「酒と女に万歳!」 の場面で、己の中核思想である生命賛歌を披露する。何れも速いテンポで歌われ彼の行動主義をも強調する。これと対照的なのがドン・オッターヴィオで、優美で大な2つのアリアを歌い、その優柔不断な性格を露わにする。彼は滔々と自己の心情を述べるが、行動はしない。ジョヴァンニのプレストで歌われる「シャンパンアリア」と対比するように、その直前に置かれた彼のアリアは、何とアンダンテ・グラツィオーソ(優美に)で歌われるのである。オペラの緊迫した筋から遊離したような、この悠々と間延びしたアリアを何故モーツァルトは作曲したのか。これは一種の対照であり、これによってジョヴァンニの行動的な性格を一層鮮やかにあぶり出すためである。これにドンナ・アンナのアリアを含めて、110番のアンナの「復讐のアリア」、10a番のオッターヴィオの優美な「アリア」、11番のジョヴァンニの「シャンパンアリア」と、3つのアリアが連続する中で、33様の性格が鋭く対比される。

 

さて、生命賛歌を歌うドン・ジョヴァンニとは一体何者なのか、その本質は何なのか。彼は人間の始原の力、社会性をかなぐり捨てた生そのものである。端的に言えば、生の生たる“生殖そのもの”、社会規範をはぎ取った剥き出しの性欲である。だが、この始原の力は抑制される必要がある。そうでないと人間社会は成り立たないからであり、これを抑制するのが文明である。文明は、社会規範(法と道徳)と芸術の力で、人間の中にある野性の暴走を制御する。法と道徳はこれを悪として断罪し、芸術はこれを精神活動の中で昇華する。人間は文明によって、この始原の力、権力欲だろうと、金銭欲だろうと、性欲だろうと、これらの剥き出しの情欲を抑制し、飼い慣らして来たのであって、文明化とは畢竟、人間の野性の飼い馴らしの歴史と言ってもよい。だが、人間の、この始原の力は決して死ぬことはなく、マグマのように人間の内面に蓄積し、しばしば、規範の殻を突き破って噴出し、社会をかく乱する。してみれば、生の暴走たるジョヴァンニが社会正義の名に於いて断罪され、地獄の底に落とされるのもやむを得ざる仕儀であろう。誘惑とエロスの18世紀ロココ文化を体現するジョヴァンニは、19世紀の近代市社会の新たな規範の下では生存し得ないのであって、そういう意味では、彼の没落は18世紀貴族社会の没落を象徴しているとも言えよう。

 

ここでジョヴァンニを断罪した社会正義というものについて少し考えてみたい。人は正義の名に於いて悪を断罪する、正義は我にありと。だが、考えてみれば人類の最大の悪とされる戦争も常に正義の名で行われて来たのではなかったか。戦争とは正義と正義のぶつかり合いであり、両者に夫々の正義がある。宗教もそうである。1神教では自らが奉ずる神が唯一絶対であり、それ以外は全て邪教であり悪である。悪は根絶しなければならない。それは信者としての神聖な義務であり、絶対的善である。かくして大量殺戮が行われる。ドイツの 30 年戦争、キリスト教とイスラム教の争いなどその例は枚挙に暇がない。革命もそうである。世界各地の社会主義革命も正義の名で行われたが、結果は大量殺戮と抑圧に終わった。自己への絶対的正義の確信は人を狂信と狂気に誘うのである。改めて、正義とは何か。ある時は錦の御旗、ある時は欲望の隠れ蓑、ある時は嫉妬だ。人は嫉妬を正義と混同する。不正蓄財や怪しげなハーレム的生活を享受する者への世間の非難は当然だ。だがそこには、そういう機会を持たざる者の嫉妬の感情が幾分なりと含まれてはいないか。もし自分にもその機会が回って来たら?「和歌山のドン・ジョヴァンニ」が悪いのではない。モーツァルトのジョヴァンニなら言うであろう、「気にすることはない、嫉妬だよ」と。ジョヴァンニを滅亡させた地獄の炎も、実は、持たざる者の嫉妬の炎ではなかったか。世に絶対的正義などと言うものはない。オッターヴィオに正義があるならば、ジョヴァンニにも正義はあるであろう。ただ、彼はそれを大言壮語せず、レポレッロにそっと告げるだけだ(第21場)。何故なら、彼は、正義などよりはもっと深い所にその根を持つ、生きた生命そのものだからである。

 

ジョヴァンニの地獄落ちに続く最後の6重唱でドンナ・アンナとエルヴィーラが見せる、どこか当惑したような、虚ろで精気を失った表情は印象的である。それは、ジョヴァンニ亡き後、オッターヴィオや魔笛のタミーノなどの⻘⽩い正義が幅を利かせる、生気のない優等生社会への幻滅かも知れない。一人、ツェルリーナだけが生気に満ちて未来を見つめる。彼女こそジョヴァンニと同根の人であり後継者たる始原の女、女ジョヴァンニである。ジョヴァンニが体現した 18世紀ロココ社会のエロスのりは、農婦・町娘として成するツェルリーナという勃興する市階級の娘を通して、⻘⽩い男性社会から生気に満ちた女性社会にその場を移しつつ、脈々と現代にまで生き続ける。そして、ドンナ・ジョヴァンナが侍女にカタログを持たせて1,000人切りを目指す女性の時代” が、やがて到来するであろう。

 

日本モーツァルト協会会員

K465 小澤純一

201911月会報に掲載)