初めてモーツァルトという名前を意識してその音楽を聴いたのは、1960年代の具体的に何年かは忘れたが、ベルリン・ドイツオペラが来日し、「フィガロの結婚」がNHKテレビで放映された時である。また、これがきっかけとなり、その後色々な機会に、「セビリアの理髪師」、「フィデリオ」、「ボリス・ゴドノフ」、「さまよえるオランダ人」などを見た。今なら作品を選ぶだろうが、当時は特段の好みも偏見もなかったし、教養的な意味も含めて色々見たのだと思う。その中では、「フィガロ」と「セビリア」が断然面白かった。理屈抜きに、文句なく面白かった。両作品共、初心者向きの入りやすい作品だったからかもしれないが、それだけでもなかったように思う。ただ、両者には大きく印象が異なるところがあり、それはエンディングの部分にあった。「フィガロ」は終幕に近づくにつれてどんどん深く重くなるのに対して、「セビリア」はどんどん浅く軽くなると感じた。これは印象の問題ではあるが偽らざる実感でもあった。私はこの実感を今でも大切に考えている。私は「フィガロ」の深さが気に入った。
その後、会社員生活の忙しさから音楽からは遠ざかり、その印象は印象として永いこと私の心に留まるに任せていたが、最近「フィガロ」を何回か見る機会があり、ふと気がついた。今にして思えば、その違いとは、「フィガロ」での伯爵夫人の赦しとそれに続くコラール調の宗教的ともいえる重く深い場面と、「セビリア」での伯爵のテノールの大アリアで終わる最終場面の印象の違いであったのか、と。勿論、今の視点で言えば、両オペラにはロッシーニ・クレッシェンドの魔力的な魅力を中核とする歌中心の「セビリア」と、音楽の微妙なニュアンスによる精妙な性格・感情描写を中核とする「フィガロ」の両世界には、両極端とも言えるような大きな違いが全編に亘ってあるのだが、当時高校生の私がそこまでの違いに気づくわけもなく、私の初めての耳はエンディングの違いだけを聞き取ったのであろう。だが、しかし、その違いは両作品の、いや、両作曲家の本質的な違いを端的な形で示してはいないだろうか。
それを私は昨年、メトロポリタン・オペラの「セビリア」上演の映画化を見て(私は「セビリア」も嫌いではない)で再認識した。フローレスの歌で。バリトンではなくテノールの伯爵。イタリア・ベルカントの真髄を極めた、それは正に歌の世界。何もないが歌だけがある。全き歌の世界。全きイタリアの世界。では、「フィガロ」は? 私は、伯爵夫人の赦しの歌とそれに続くコラールを聴く度に、人間の「真情」と人生の「真実」という言葉が頭に浮かび、強く心打たれる。モーツァルトは音楽で思考する思索家であった。そのテーマは愛と死。その音楽の背景には常に死の意識がある。だからあんなに美しく輝かしいのだ。そして一瞬の厳粛さ。それが「フィガロ」の終幕に現れ、人間と人生の真実をあらわにする。
どちらが優れているか? それは、趣味、センスの問題だ。人生観の問題といってもよいかもしれない。しかし、そこにはなんと大きな隔たりがあるのだろう。イタリアの心とドイツの心。イタリアの輝かしい歌の世界とドイツの深い歌の世界。私は?私は「フィガロ」に現れる人間の真実と深い歌の世界に惹かれるから、モーツァルト協会にいる。
私にはもう1つの原体験があり、それは私をモーツァルトの別の一面に導いてくれたが、それについては次の〈もう1つの出会い〉に譲る。
(2014年9月会報に掲載)
〈もう1つの出会い〉
先月の稿で述べたベルリン・ドイツオペラの来日と同時期と記憶しているものの、どちらが先だったかは実は定かではないのだが、1960年代の中頃、NHKラジオで確か「夏の夜のモーツァルト」という番組が放送された。高校生の夏休みの時だった。シリーズ物で、一週間ぐらい毎日セレナードとディヴェルティメントばかり集中的に放送され、華やかで美しくキラキラした音楽に魅せられて、これを毎晩熱心に聴いたものだった。その中で妙に記憶に残ったのが「ハフナー・セレナード」だった。高校生の分際でどのようにお金を工面したのか記憶にないが、「ハフナー」という名前だけを番組から聞き取り、翌日レコード屋に行って「ハフナーを下さい」と言って買った。レコード屋のオヤジは確認もせず、ハフナーはハフナーだが、ハフナー交響曲を売ってくれた。お陰で私は家に帰ってから、ハフナーには2曲あることを知ることになった。
力作にも係わらず、音楽評論家からは必ずしも名曲とは言われないハフナー・セレナードだが、その何が私を捉えたのであろうか。セレナード、ディヴェルティメントという祝典音楽。その輝かしさか。その美しい調べか。或いはそれらが醸し出す華やかなロココの世界か。どれもこれもそうだったろう。どれもこれもが私を捉えたのだ。それは、正に夏の夕べの音楽。はるか遠く過ぎ去ってしまった、なつかしいロココの夕べ。だが、その華やかで美しい音楽を聴き進めるうちに、その繊細なヴァイオリンの響きの中に、そっと忍び込む哀調の調べが聴こえてはこないだろうか。それは何も短調楽章に限らない。華やかで美しいにも係わらず、或いは、むしろその故にと言うべきか、華やかさと美しさが極まり、悲しみが現れる。それはあれこれの悲しさではない。ある本質的な悲しさ、人が生きることの悲しさだ。多分、私はそれを聴いてしまったのだ。
美しいヴァイオリンの音。キラキラ光り輝く音たち。それらは、はるか上空に舞い上がる。そのきらびやかな美しさは、なんとまあ、生きることの悲しさを感じさせることか。人は皆生きることの悲しさを背負って生きていかねばならない。では、人は何故生きるのか。これがモーツァルトの全作品を流れる通奏低音であって、彼の音楽はこういうことを感じさせる稀有な音楽である。一度こういう感じで掴まれると最早離れることができなくなる。私は音楽の専門家ではないので、吉田秀和氏のように、「音楽のここがそうだから、そう感じるのだ」という説明はできない。自分の実感を述べることができるだけだ。
数年後、小林秀雄の「モオツァルト」を読んでいて、1つの文章に行き当たった。「(モーツァルトの音楽は)萬葉の歌人が、その用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい」。彼の「モオツァルト」は、現在では、事実に誤りがあるとか、短調に偏っているとか、オペラを無視しているとか批判され、甚だしきは、「ハシカのようなもので一度は罹るが最早克服された」などと言われるが、この「かなし」を超える形容がその後現れたであろうか。勿論モーツァルトの音楽は多様である。人生が多様であるように多様である。その全体を表現することは難しい。「人生そのもの」としか言えないのかも知れない。しかし、一面とは言えモーツァルトの音楽の本質をこれ程鋭く切り取った形容は未だ出現していないのではないか。その意味で、今なお凌駕されることのない不滅のエッセイである。なお、付言すれば、小林が「モオツァルト」で最も精魂を込めたのは、おそらく、あれこれの内容よりも、エッセイ全体を貫く文体とトーンだった。そして、それらが醸し出す色調が彼の捉えたモーツァルトの正体を遺憾なく表現している。
美しい桜の花を見て、その美しさよりも、はかなさ・悲しさを感じる日本人の心。生きることの悲しみとは、正に日本人の心。そのような日本的感性の持ち主が、西洋音楽の発展の真只中に出現したということは、実に驚くべき不思議なことではあるまいか。
日本モーツァルト協会会員
K465 小澤純一
(2014年10月会報に掲載)
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